自己の言語回路からの自由へー九鬼周造著『日本詩の押韻』私解ー
狸亭

まだ若かった三十年前、薄っぺらいクラシックラルースをテクストに辞書と首っぴきで
ランボーを読み、痴がましくもその全訳を夢見たものだったが、十歳の少年が「金利生活
者になりたい」などと書いているのがどうにも判らなかった。まことに遅まきだが今頃に
なってブルトンを読み、「自由」への熾烈な欲求、「労働」に対する拒否、嫌悪の伝統を
理解した。フランス語の「トラヴァーユ」の源流であるラテン語の原義は「拷問」である
という話をきけば、ようやっと腑に落ちるのである。
 
簡単な話だ。人生は短く、一日は二十四時間しかないのだ。人間は宿命的に制限の中で
しか生きられない。個体としての時間、空間ともに制約の中にあるし、親子、交友関係も
まして男と女、夢との関係すら、どうしようもなく限定される。不倫の恋も、世界の名著
との出会いも。死があるから生がある。人は死ぬことによってその個々の生を確定するの
だ。制限があるから、人は無限の自由を夢想する。言わば有限の意識をバネとし中身の濃
い自由を獲得できる。
 一方で、古来より人は対立する概念を持ち続けて来た。天と地、男と女、善と悪、高い
安い、白と黒、恍惚と不安、等々。これらのアントニムは無数のシノニムと合わせてかぎ
りない興趣をかきたてる。太宰治の小説に「罪と罰」はアントニムかシノニムかという問
い掛けがあって面白い。

「およそ押韻の原型は二句のある応和である。」と、九鬼周造は言い「『古事記』の伊邪
那岐、伊邪那美二神の親しみ詞」として

 あなにやしえおとこを
 あなにやしえおとめを

を挙げて「「韻の形態」について述べているが面白い指摘だ。
 
五十三歳で没した稀有な文人哲学者の押韻に関する周到な考察は、著者のパリ滞在中
(一九二七年)即ち著者三十代後半から帰国後の四十代後半に至る、ほぼ十年余をかけた
執念の達成であり、古今東西の和漢洋の驚くべき大量の詩書を渉猟しつくした名著で、再
読三読する度に時間を超えて私を撃つ。
 
九鬼が詩の「内容と形式」について説く時、それは人生の「生き方」と死に至る「時間」
との関係のように読めるのだ。「藝術の本質は内容と形式との調和統一に存するもので、
藝術の内容は藝術をしてふさわしい形式を備へなければならない。形式上の束縛は藝術に
は或る意味で本質的のものである。」という文章は「藝術」を「人生」と読めば、より味
わい深いものとなる。
 
私が詩における韻律の問題に捉えられたのは詩誌『中庭』創刊号の梅本健三の論文「よ
くみる夢『海潮音』が口語押韻訳だったら」である。ヴェルレーヌの詩の構造を詳細に解
明したこの論考の−前置き−の記述「現代日本語の押韻定型ということに、何か疑問を感
ずるとか、反感を覚えるとかいう人たちへ」に従って敢えて読みたい本文を飛ばし「後置
きの序説−定型忌避の生まれる場所」を読んだ結果であった。
 
詩の内容と形式については、もちろん自分なりには考えていたし、さまざまの場で、学
び且つ議論もして来たが、現代詩においては自由詩であることは自明であった。ポエジー
とポエムの関係はかぎりなく自由であるべきと考えていた。しかしかぎりなく自由であり
すぎたのだ。若い時朔太郎の『詩の原理』に熱中したことを思い出した。何か「原理」が
欲しい。「詩は詩でなければならない」と思った。何を今更、と人は笑うだろう。多くの
詩人たちが多様なスタイルの詩型を持ち、自己の内部に独自の回路を完成し。森羅万象を
その回路を通過させることで詩にしてしまう、自由闊達な作風を羨ましく思う。私は怠惰
の故か、未だに自分の回路を持ち得ないでいる。そういう時、ある先輩詩人がいみじくも
言った言葉が強い印象となって心に残っている。「詩などというものは長さによって決ま
るのだ。俳句より短歌のほうが長い。短歌より詩が長い。しかして詩より小説のほうが長
い。」よく言ってくれたものだ。そんなものかも知れないと思った。自由なのだ。文芸の
ジャンルはいまや自由の極にある。作者が詩と言えば詩になるし、エッセイと言えばエッ
セイ、小説と言えば小説、評論と言えば評論なのだ。そういう時代であることも、判らな
いではない。しかし、この自由は危険だ。巨大な陥穽がある。自己満足という、底の知れ
ない欺瞞が。少し長くなるが九鬼の文章を引く。
 「詩の形式に関して次のやうに考へる者もあるであろう。いはゆる律や韻は外的形式に
過ぎない。真の詩は内的形式に従はなければならない。真の律とは感情の律動であり、真
の韻とはこころの音色である。かういふやうに考へるのは広義における自由詩の立場であ
る。私はこの立場に対して決して抗議をするものではない。寧ろ自由詩と律格詩は相竝ん
で発達して行くべきものと信じてゐる。ただここに両者の相違を明らかにして置きたい。
自由詩を主張する者は感情の律動に従ふことを云ふ。然しながら、この場合の従ふといふ
意味は詩の律格に従ふ場合とは意味を異にしてゐる。感情の律動とは主観的事実である。
詩の律動は権威をもって迫る客観的規範である。両者に『従ふ』恣意と、理性に『従ふ』
自由との相違に似たものがある。律格詩にあっては、詩人が韻律を規定してみずからその
制約に従ふところに自律の自由がある。現実に即して感情の主観に生きようとする自由詩
と、現実の合理的超克に自由の詩境を求めようとする律格詩とは、詩の二つの行き方とし
て永久に対蹠するものであろう。」
 
押韻詩を実際に試みてみると、いつもは使わない言葉と出会う。自分流の感性(慣性)
に頼った使い慣れた表現が、音律上の制約によって捜された言葉と衝突し、思わぬイメー
ジの転換に驚く。「形式上の束縛」が緊張を高め、思考が発展し、馴れあった自己の言語
回路から自由になると同時に思わぬ言葉との出会いの喜びがある。
 最近も私の押韻定型詩に対して、「なんだかキュークツそうですね。」というお便りを
貰ったし、仲間からも概ね同様な評価を戴いているが、これは明白に、私の作品が未熟で
あるに過ぎないのであって、押韻の故に、ではない。古今東西千年を優に越える押韻詩の
伝統はわが口語現代詩にはきわめて少なく、まだその試みは始まったばかりなのだ。私は、
我が身をもって気の遠くなるような詩の歴史を体験してみようと思い立ったのだから、当
分の間は処置なしである。

 九鬼は言う。「およそ形式に束縛を感ずるのは詩人にとって決して譽ではない。みづか
ら客観的法則に従ふとき、詩人は自然のやうな自由を感ずる筈である。なぜならば、表現
界の客観的法則に従ふ主観の受動は、表現界を創造する主観の能動にほかならない。受動
はパトスであることによって受動から能動へと反転する。表現は自己犠牲を媒介として自
己肯定を実現するのである。法則を拘束として意識しないところに、藝術家としての、ま
た人としての偉大さとパトスの創造力とがある。」

 道なお遠し、しかし今は行ける処まで行ってみるしかないと思っている。「僕の前に道
はない/僕の後ろに道は出来る」のである。いや、微かな道標がないわけではない。九鬼
の『日本詩の押韻』をはじめ、現代詩文庫『中村真一郎詩集』巻末の詩論「押韻定型詩
三十年」他、梅本健三の『詩法の復権』及び飯島耕一著『定型論争』である。
 私も「広義における自由詩」の「立場に対して抗議をするものではない。寧ろ自由詩と
律格詩とは相竝んで発達して行くべきものと信じてゐる」のだ。私は私自身の問題として、
自分の詩の回路を確立するために、その方法の一つとして、今は押韻定型詩を試み始めた
ということである。正直に言って、九鬼周造をはじめ、中村真一郎、そして梅本健三や飯
島耕一をも含めた『中庭』の諸作品について、いずれもその実作の大半は試作の域を越え
てはいないのが現実の姿であり、成功作は極めて少ないと言える。無理もないではないか。
日本の現代詩の圧倒的多数の裾野に比べてみれば自明のことだ。俗に俳句人口三〇〇万人、
短歌三〇万人、現代詩三万人と聞いているが、『中庭』の中心になる詩人は創刊当時の四
人しかいない。言わば少数民族である。意気や壮とすべきであり、多数を頼んで抹殺ある
いは無視を決め込むのは、激動する世界の中でなまぬるい平和にどっぷり漬かっているど
こかの国民と変わらない。
 私たちは現代という時代から逃れることは出来ない。辛く厳しい時代を経て生き続けて
来た先達の歴史を、バトンタッチのようにある時点で受け取ったわけではない。限られた
生の時間の大部分を伴走しながら、少しずつずれながら、生きている。歴史は書物の中や
遠い過去にのみあるのではなく、生きている一人ひとりの生身の現在の裡にある。情報量
も激増し、空間的にも世界は狭くなった。ということは時間的にもひどく濃縮された場所
にいるのではないか。その気になれば私たちは中東の砂漠に立つことも出来るし、古代そ
のままのインドの村にいることも可能だ。まして世界の言語に直接接することや、時間軸
を取ってみても、驚くべき量の書物を通して、多少とも想像力を働かせれば、人類の過去
を、その時代の感覚で感ずることだって可能である。

 九鬼の『日本詩の押韻」に巡り合ったのは私の年齢では、遅かったようにも思うが、
「目指す先には黄金の山が約束されてゐないと誰が云えるであろう。」と結ばれた、ほぼ
六十年前に五十三歳で死んだ九鬼の想いが、奇しくもその年齢に達した私に伝わったのも
何かの縁であるし、若い世代に希望という遺産を引き継いでゆくのは義務でもあると思う
のだ。






散文(批評随筆小説等) 自己の言語回路からの自由へー九鬼周造著『日本詩の押韻』私解ー Copyright 狸亭 2003-12-12 11:04:07
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