かくかくしかしか/書く掻く詩か死か --詩と詩人についての雑文
岡村明子

佐々宝砂さんの「二流詩人7つの条件」とそれに関わる一連の文章を大変興味深く拝読した。コメントはその文章のところに書かせていただいたので、ここでそれ以上感想文なり批評(恐れ多い)を書くつもりはない。ただ佐々さんの文章に触発されて、詩や詩人について私も新米ながら考えをまとめてみようかなぁなんて思い立ったのである。思い立ったが吉日。が凶と出るか。

その前に少しばかり前置きを。
自分がどのような詩人でありたいか、あるか、ということについては誰しも考えをもっているところであろうし、それは自由に披露されてしかるべきだ。そこに議論の余地はない。このような詩人たれ、このような詩を書け、という言説は例えば師匠と弟子の関係ならありえるが同じ土俵の上に立っているならば少々おせっかいというものだ。自己と他者との境界線をはっきり引きたい(際立たせたい)人もいるであろうし、そうでない人もいるのであろうが、いずれにせよ私たちはお互いに自分のアイデンティティーを侵害しない尊厳を持つべきだ。揺さぶられることは当然、あると思うけれども。ただ「詩あるいは詩人とはなにか」という議論はそれとは別のものなので考えが違えば批判されることも当然考えている。それを覚悟の上で、今の私の考える「詩あるいは詩人とは」を書いてみる。説明はくだくだしいかもしれないが、かなりシンプルであると思う。

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様々な文芸のかたちがある。大雑把に言えば、言葉という大きな運動場に、サッカー場や野球場やテニスコートのような形でそれらは存在している。詩もその一つである。だから「詩はフィールドである」と思う。同じことが小説や戯曲その他のジャンルについても言える。サッカー場でプレイするのがサッカー選手であるように、詩というフィールドで活動するのが「詩人」である。
「詩とはどのような形態か」と聞かれたら、「断片」と答える。物語は完結しなくてはならないが、詩はその必然性を免れるからそう思うのである。
「詩とは何から生まれるか」と聞かれたら、「詩人の目によって眺めること」と答える。ことがらを詩人の目によって認識するということである。桜が咲くということがらは例えばお天気キャスターにとって「桜が咲く」という以上の意味を持たないのだが、詩において「桜」という語が選択されたときその語に単にバラ科の植物という意味だけを込めたとは考えにくい。その詩に「桜」がある必然性は季節とは関係がなく、詩人の目がそれを見ていたかどうか、ということだけにゆだねられる。詩人でなくとも私たちは世界を言葉の差異の網目によって認識していると思われるのだが、意味するものと意味されるものの間にゆらぎが生じるのが詩人の言葉であろうかと思う。少々暴論だがメタファーとはそのようなところに成り立つのではないかと私は考えている。世界を認識するための言葉を自由に選びとるということ。そしてその言葉の紡ぐ論理で世界を覆うということ、その断片が作品である。眺める対象が事象でなく言葉そのものに向かえば言葉あそびの詩が生まれる。
「詩とはどのように成立するか」と聞かれれば、「読まれること」と答える。読まれないうちは作品たりえないからである。逆にいえば「読まれない詩はない」ということになるだろうか。読み手(あるいは聞き手)は詩人の眺めわたす目そのものにはなれないので共通のツールである言葉に頼ることとなる。言葉についての経験はひとそれぞれであるので詩人の意図するところと全く違う世界を映し出すこともあるだろう。つまり詩とは究極的には読み手の経験の中に存在する。

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以上が私の考える「詩あるいは詩人とは」です。
今のところは、と注釈をつけるべきかもしれません。
この程度の長さの文章でもひさしぶりに書くと肩が懲りますね(笑)


散文(批評随筆小説等) かくかくしかしか/書く掻く詩か死か --詩と詩人についての雑文 Copyright 岡村明子 2003-12-11 02:33:50
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