吉岡実が後続の詩人たちに与えた影響は大きい。七十年代以降の日本の現代詩は、吉岡実がいなかったらまったく違った姿になっていたのではないだろうか。
ここでは吉岡実の『静物』『僧侶』の二つの詩集を中心に、『紡錘形』『静かな家』までの四冊の詩集について少し語ってみたい。この五十年代から六十年代にかけての吉岡実の詩業が、後続の詩人たちに計り知れない影響を与えていると思うからだ(それと、正直に言えば、後期の詩に関しては、僕自身いまだに読みこめていないと感じる)。
まずは、吉岡実を語る際によく引用されるこの詩から。
夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれは
かさなったままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく
めいめいの最も深いところへ至り
核はおもむろによこたわる
そのまわりを
めぐる豊かな腐爛の時間
いま死者の歯のまえで
石のように発しない
それらのくだものの類は
いよいよ重みを加える
深い器のなかで
この夜の仮象の裡で
ときに
大きくかたむく
(「静物」全行)
初めてこの詩を読んだ時、なんて動きのない詩だろうと思ったのを思い出す。もしこの詩の中に動くものがあるとすれば、それは目に見えない「豊かな腐爛の時間」であり、表面に現出していない「大いなる音楽」であるだろう。そして最終行でようやくこれらの静物たちは動く。「ときに/大きくかたむく」のだ。それは動かないでいる静物が、動くことによって静物から生死の大きな連環の中へと入ってゆく一瞬なのかもしれない。だが、その動きも目に見える動きであるとは確実には言えないかもしれない。それは「そのまわりを/めぐる豊かな腐爛の時間」と同じようなまぼろしの動きであるのかもしれない。だが、説明的詩行はいっさいなく、ただ詩全体が一枚の絵画、それこそ静物画のように表現されている。
この詩を手がかりとして、この時期の吉岡実の詩をやや乱暴に、絵画的な詩であると言ってしまいたい。あの有名な「僧侶」でさえも、スナップショットの連続のように詩が形づくられているように思える。
四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自涜
一人は女に殺される
(「僧侶」第一章)
四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる
(「僧侶」第九章)
全九章で構成された「僧侶」の最初の部分と最後の部分である。間に挟まれた七つの章も、同じような奇怪なイメージで埋めつくされている。吉岡実はよく難解な詩人と言われたが、ただ詩で絵を描く、それも奇怪なイメージを描くことに固執していたのだと考えれば、難解さも多少やわらぐだろう。これは言葉によって描かれた絵であり、そこに意味を求めようとしてはいけないのだ。
こうした作風はその後の『紡錘形』『静かな家』でも受け継がれている。またひとつ『静かな家』から、奇怪で理解不能な、それでいて妙に印象に残る詩を引く。
水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球を
すべりながら
老人は死人の能力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
そのうごきをしばらくは見よ!
他人の痒くなってゆく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のタンポポの野に
わ ヴィクトリー
螢光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
カタツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー
(「桃」全行)
副題は「或はヴィクトリー」と記されている。これもまた奇怪なイメージであると言うしかないが、次第に吉岡実はこうした作風から離れてゆく。現に「桃」が収められた『静かな家』にはけっして絵画的とは言えない詩も含まれている。ただ奇怪な絵画を描くだけではやがて行きづまると、詩人自身が考えたのかもしれない。その後の『神秘的な時代の詩』『サフラン摘み』『薬玉』『ムーンドロップ』といった後期の詩集ではまったく作風が変っている。この時期の吉岡実も面白いのだが、ここではまだ語ることが出来ない。最後に、吉岡実が残した奇怪な絵画の中でも、僕が最も好きな一篇を全文引用しよう。
その男はまずほそいくびから料理衣を垂らす
その男には意志がないように過去もない
鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
刃物の両面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる
もし料理されるものが
一個の便器であっても恐らく
その物体は絶叫するだろう
ただちに窓から太陽へ血をながすだろう
いまその男をしずかに待受けるもの
その男に欠けた
過去を与えるもの
台のうえにうごかぬ赤えいが置かれて在る
斑のある大きなぬらぬらの背中
尾は深く地階へまで垂れているようだ
その向こうは冬の雨の屋根ばかり
その男はすばやく料理衣のうでをまくり
赤えいの生身の腹へ刃物を突き入れる
手応えがない
殺戮において
反応のないことは
手がよごれないということは恐しいことなのだ
だがその男は少しずつ力を入れて膜のような空間をひき裂いてゆく
吐きだされるもののない暗い深度
ときどき現われてはうすれてゆく星
仕事が終るとその男はかべから帽子をはずし
戸口から出る
今まで帽子でかくされた部分
恐怖からまもられた釘の個所
そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす
(「過去」全行)
詩集『静物』の最後を飾る一篇である。汚い言葉を恐れないという点でも、初期の詩人の特徴が十二分に表われた傑作であると思う。人によってはここに何らかの思想を読み取ることが出来るかもしれない。だが、僕は奇怪な絵画で充分だと思っている。まずは絵としてこの詩を味わう。隠されているかもしれない思想はあとから、それこそこの詩の最終行のように、ゆっくりと流れ出してくるだろう。