こんにちは 若松さん
たちばなまこと
こんにちは
頼りのない足取りの青年が囁く
こんにちは
つぼみのままの桔梗のようなからだが
治療病棟の個室に吸いこまれる
「若松さん。」
人の傷跡が残る廊下に ただよう消毒液のにおい
若松さんの声と残像が霧になって拡散してゆく
クリーム色の壁と肌の明度が近くて
あなたもやがてこの壁に触れるの?
私が触れても壁は 冷たくはね返るだけ
こんばんは
エレベーターの隙間から若松さんを見つけた
こんばんは
おととい沈みすぎたソファーで微笑む
眼鏡の奥の涼しい目元がちょっとゆるんだ
面会者名簿を書き終えてふり返ると
残像だけが霞む
また清楚な霧の尾っぽが病室まで伸びていた
今日は遠くですが
こんにちは 若松さん
クラシックミュージックがお好き?
フルートはあなたの線のように細く
ヴァイオリンは内に秘めたる情熱
ピアノは窓から庭に逃がした涙
開け放たれた病室の逆光に あなたの気配
繊細を乱暴にかき回す白衣の堕天使達の羽が
また床に傷を埋めこむ
一枚だけ拾い上げて息を吹きかけると
ソプラノのプラチナにほどけて笑った
今日もお昼にこんにちは
いつも会う老紳士にもこんにちは
若松さんのこんにちはほど気品に満ちたものではないけれど
今日のあなた Tシャツがミラノレッドで眩しい
理想に描く血液の色なのかもしれない
私が沈むピンクベージュのソファー
左横に座りかけてやめて 曲がり角に消える
週末にはその階段を右手に 療養病棟へ移ります
心で唱えた言葉は血管に取り込まれてしまった
グレーの粒がまどろむような
今日は雨です 若松さん