スローモーションで行けばいい
望月 ゆき

 
感性に年齢は関係ないか。
と、聞かれたら。やはり「関係はある」と答えてしまうだろう。
 
まだ10代前半の頃、詩(のようなもの)に興味を持ち、作品と言えるほどではないにしても、走り書きのようなものだけは、ずっと書き続けている。
それを読み返してゆくと、気づくことがある。 
あの頃は、という言葉を使うのはあまり好きじゃないのだけれど。
それでもやっぱり、あの頃は、今とは明らかになにかが違っていた。
毎日が過ぎてゆくスピードは、今より数倍速かった。
けれど、そんなふうに猛スピードで過ぎてゆく日々の中でも、わたしはいつも何かをとらえていた。
ちゃんと。
見落としたものも、たくさんあるだろう。
けれど、今よりははるかにたくさんのものを、わたしはとらえて離さなかった。

なぜ今、目の前を通り過ぎる日々が、手をのばせばつかめるほどのゆっくりとしたスピードで動いているのに、わたしは手をのばさないのだろう。
通り過ぎる日々の中身は、あの頃と大きくはかわらないはずなのに。
なぜ今は、日々の中でキラキラ輝いている(であろう)ものを見落としてしまうのだろう。
いや、もしかしたら。
見落としているのではなく、見過ごしているだけなのかもしれない。
あれからもう20年ほどの、生きてきた月日の中でわたしは、見ないふりをするくせを身につけてしまった。
見ないふりをすることで、幸せになれるかどうかは知らない。
けれど、見ないふりをすることで、不幸せになる確率が減る。ってことに、気づいてしまったんだろう。

目の前を流れてゆく日々の中に含まれているキラキラは、決してあの頃より減ってなんかいない。
むしろ、増えているとさえ言えるだろう。
学生を終え、社会に出て、恋愛をし、結婚し、出産し、子育てをし。
そんなにも人生のパーツを増やしながら、生きているのだから。
変わったのはわたしの目なのだ。
忙しさにかまけて、見ないふりをするわたしなのだ。
 
目をじっと凝らせば、ゆっくりとスローモーションで過ぎてゆく日々。
それならわたしもスローモーションで並んで歩こう。 
そうすれば、いつしかお互い手をとって、よりそって歩くことができるかもしれない。

そのときまた、その答えを見つければいい。

 




散文(批評随筆小説等) スローモーションで行けばいい Copyright 望月 ゆき 2005-06-12 09:50:15
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