言葉の距離
嘉野千尋


 誰かの記した言葉を読むとき、自分自身がそっとその言葉の傍らに寄り添っているような気がすることがあります。詩集に頬を寄せるわけではないけれど、言葉のひとつひとつに愛しささえ感じるような想いで、その言葉の並びを目で追っている瞬間というものが、確かにあって…。
 けれどもときどき、距離を測り損ねて自分自身を傷つけているのではないかと思うこともあるのです。それは、足の小指を扉や机の角にひっかけて顔を顰めるようなことにも少し似ているのですけれど、測り損ねた距離に最後まで気付かないこともあるのだということに、今ではわたしも気付いてしまいました。(2005.1.9)

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 真っ白な紙の中央に、ほんの数行、メッセージを書いてみてください。小さな文字で、けれどはっきりと。大きすぎる余白の中で、書き付けは不安定に見えるでしょう。心もとない感じ、とでもいうのでしょうか…黄金率の話ではないのですけれど、綴られた文字とその余白との間に、もしも「ふさわしい関係(あるいは比率)」があるのだとすれば、例えばB5のノートの真ん中にたった数行記される言葉というのは、その文字と余白との関係から外れているのかもしれません。
 そうして記された言葉のどれほどを、遠くから見る人は「読んで」いるのでしょうか。あるいは、遠くからその文字をなぞる人の目には、もはや文字はその形を失って、小さな点の並びとして映っているのかもしれません。ただ言葉の記された紙だけが、そこに何らかのメッセージが確かに存在することを伝えて…。(2005.3.10)

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 いつからか、気付けば自分の内側になんの違和も無く入り込んでいる言葉があって…。これは誰の言葉なのだろうかと、時に首を傾げてみたり。愛した詩人の、いいえ、あの人の……。それとも、わたしは以前から知っていたのかしら。
 心に浮かぶ風景をなぞるいくつもの言葉があって……それはわたしの見た景色? それとも誰かの言葉を追体験したもの? ときどきそんなことも考えながら、気が付けば心のうちには、いつでも言葉が溢れていて。(2005.5.某日)

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 時間に追われる日々の中で、言葉はゆっくりと失われていくものなのでしょうか。今はとても静かで…、外では変らずに雨音が続いているけれど、カーテンの内側では物音もなく…。
 口を閉ざして、沈黙を守ったあの頃。言葉が眠る夜にも、感情はざわめいていました。内側に留まる限りでは言葉はこんなにも自由なのに、なぜ苦しまなければならないのでしょう。
 窓辺で死んでいったいくつもの言葉の行方を、わたしは今も知らないままでいる。(2005.6.11)






散文(批評随筆小説等) 言葉の距離 Copyright 嘉野千尋 2005-06-11 14:02:31
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