意見書
atsuchan69
あなたはどう思いますか?
どこかの詩人会のホームページに掲げられた、
【わたしたちはロシア・プーチン大統領に起因する不条理に反対し、ウクライナの人々の安全と平和を強く望んでいます】
という表明は、一見すれば人道的で、誰も反対しえない倫理的姿勢のように見える。しかし、この表明は、文学団体が公的に掲げる言葉として、きわめて危険な要素を孕んでいる。
第一に、この声明は詩人の共同体を単一の政治的意思へと回収してしまう。
「わたしたちは」という主語は、個々の詩人の思考や逡巡、異議や沈黙を消去し、あたかも会員全員が同一の政治的認識と評価を共有しているかのような虚構の一致を作り出す。詩とは本来、同意の圧力から自由であるべき言語行為であり、世界を単純化する言説に抗するための装置であるはずだ。その詩人たちを、団体の名のもとに一つの「正しい立場」に束ねることは、表現の自由を守るどころか、内部から侵食する行為に等しい。
第二に、この声明は複雑な現実を道徳的二分法へと還元する危険を持つ。
「プーチン大統領に起因する不条理」という表現は、紛争の全責任を単一の人格に集約し、歴史的・地政学的・経済的背景を思考の外へと追いやる。詩の言葉が本来持つべき曖昧さ、重層性、問いの開放性は、ここでは一切許容されない。文学団体がこのような単線的因果関係を公式見解として掲げることは、詩的思考そのものを否定する行為である。
第三に、この表明は沈黙する自由を奪う。
公的なトップページに掲げられた声明は、同意しない会員に対して「ではあなたは反対なのか」という無言の圧力を生む。発言しないこと、判断を保留すること、あるいは異なる視点から考えることが、あたかも倫理的欠如であるかのように扱われかねない。これは、言論の自由ではなく、言論の動員である。
第四に、こうした声明は詩を道徳的装飾品へと堕落させる危険を含む。
「平和を強く望む」という言葉は美しい。しかし、その美しさが免罪符となり、思考停止を正当化するならば、それは詩の言葉ではなく、スローガンである。詩は願望を掲げるだけでなく、願望が成立しない現実の裂け目を見つめ続けるための営みであるはずだ。
最後に、この表明が最も危険なのは、善意であるがゆえに批判されにくいという点にある。
人道、平和、反不条理――これらは誰もが共有できる価値である。だからこそ、その言葉が制度の権威と結びついたとき、異議申し立ては「冷酷」「非倫理的」として退けられる。詩人の世界において、そのような空気が生まれること自体が、深刻な危機である。
詩人会が守るべきなのは、正しい立場ではない。
正しさを疑い続けるための、言葉の自由である。
その自由を自らの手で狭める声明は、たとえ善意に満ちていようとも、詩の敵になりうる。