日本現代詩人会の声明を「詩」として読み解く
室町 礼
つい先日、わたしは投稿板に定期的に投下される風俗広告スパム
を酔狂にも「詩」として真面目に分析してみました。その結果は
かなり興味深いものでした。仔細に分析してみると、その構造は
最新のコンセプチュアル詩とそれほど変わらなかったからです。
そこで今回の試みは日本現代詩人会がネットに掲載した声明文を、
同じく「詩」として読んでしまおうというものです。
さて、何度もお馴染みのその声明とは以下のようなものです。
【わたしたちはロシア・プーチン大統領に起因する
不条理に反対し、ウクライナの人々の安全と平和
を強く望んでいます。──
日本現代詩人会HP運営委員会】
詩として読むと、まず「わたしたち」とは一体だれなのか──?
という疑問が生じます。 はて、だれなのでしょう?
どのような経験・痛み・歴史を背負った「わたしたち」なのか?
なぜ「反対する」のか? そういったことはまったく不明です。
おそらく日本現代詩人会の会員のほとんどの方はこの「わたしたち」
に自分が含まれているとは感じていないでしょう。感じていると
すればたいへん失礼な言い方ですが「アホ」です。
だって、常識をもった詩人ならすぐにこういう疑問をもつはずだか
らです。
なぜウクライナ侵攻だけが詩人会の政治声明になるのか?
アフガニスタン戦争、ベネズエラ介入、旧ユーゴ空爆など、欧米が
先に手を出して軍事侵攻し、民間人が多数犠牲になったケースは山ほ
どある。しかし日本現代詩人会はこれらに対して組織としての声明を
出していない。
なぜウクライナだけは声明が出るのか? という問いは詩人会に民族
的偏見と世界を見る目の非対称性があることを示している。
うがった見方をすれば欧米が非難した事件だけに詩人会のアンテナが
向かい、それ以外はスルーされていることを示している。
そう考えたとき、まともな詩人ならこの声明の「わたしたち」に自分
が含まれていると考えるのは恥ずかしいことのはずです。
詩人会のこういう偏った民族的偏見はウクライナの難民 → “受け入れる
べき” シリア・アフガンの難民 → “治安が心配” イラクの民間人死者
→ “仕方ない面もある”というおかしな空気と同調性をもっていて、とて
も現代詩人が納得できるものであるはずがありません。
次に「不条理」ということばですが、詩人がそう簡単に使っていいもの
でしょうか? これは非常に重いことばです。
カミュの『異邦人』やサルトルの実存主義が扱ったような、人間の根源的
孤独(世界との存在のズレ)に向き合う言葉です。
しかしこの声明文では「不条理」という語がロシアの指導者であるプーチン
を非難するための簡便な文学的語彙(道具)として使われている。
詩として読むと、ことばの重さと文脈の軽さが完全に乖離している。もちろ
んそれはこの声明を「詩」として読むからそうなるのであって、声明文とし
ては言葉が曖昧性と詩的な雰囲気をもち無難で安全な語彙として選ばれたこ
とを示しています。
なかなかの商売人です。
次に、
ウクライナの人々の安全と平和を強く望んでいます。
という「祈りのことば」ですが──「望む」「祈る」という語は、語り手の
痛みや切実さを伴うものです。
しかしこの文には、なぜ望むのか、どのような痛みから望むのか、その望み
は語り手自身のどんな経験に根ざすのかが一切ない。ものの見事にない。
つまり、
祈りの形式だけがあり、祈りの内容がない。
こうやってみてくると、不思議なことに、先に分析した風俗広告スパムと、
構造としてはまったく同じ構造をもっていることに気づくのです。
総じてどちらも「声の持ち主がいない言葉」になっている。
風俗スパムは、「安心」「安全」「即」「簡単」「無料」など、反応を引き出
すための安全な語彙だけで構成される。
日本現代詩人会声明も「不条理」「平和」「安全」「望む」といった誰も反対
しない“無難な語彙”だけで構成されている。
しかし風俗スパムのことばには、法律上、表に出せないものが裏にあり、その
ため、ひとつひとつの固有名詞が隠喩性を帯びていました。たとえば「即OK」
という意味不明の言明も、裏を返せば"アレがアレ"なのです。笑
ところが日本現代詩人会の声明文は、風俗スパム以下で、安全で空疎な語彙の羅
列の背後には何もない。見事に何もないのです。主体もなければ隠喩もない。
広告スパムと同じ、いや、それ以下の空疎な構造があるだけなのです。
これは詩人会声明が風俗スパムと似ていることではなく、
詩人の言葉がもはや風俗広告以下の言葉に堕している現実を示しているのでは
ないでしょうか。