不明
後期
人が行方不明になるというのは、何も山に入ったきり帰らぬとか、海に出た船が戻らぬとか、そういう劇的なことばかりを指すのではないらしい。むしろ、もっと静かな、そして当人にとってもほとんど自覚のない仕方で起こることのほうが、ずっと多いのではないかと思われる。
たとえば役所の放送である。
「行方不明の方をお知らせします」
性別、年齢、服装、特徴
それらは整然と読み上げられ、町内の空気に混じって拡散する。数字と色彩と風采が、夕方の風の中に溶ける。そこには感情も悲劇もない。あるのは秩序であり、手続きであり、配慮である。
そして無事に見つかれば、同じ声が言う。
「先ほどお知らせした方は、無事見つかりました」
無事という言葉は便利である。怪我の有無も、心の状態も、その後の人生も、ひとまずこの二文字で包んでしまう。包まれたものは整えられ、分類され、記録される。そうして世界は平穏を保つ。
私は、ときどき考える。
もし人が、制度の言葉にぴたりと包まれたまま、少しずつ自分でなくなっていくとしたらどうだろうか、と。
行方不明とは、所在が確認できない状態をいう。
しかし所在とは、住所や座標のことだけではあるまい。
自分がどこにいるか、自分が誰であるか、それが曖昧になることもまた、一種の行方不明ではないか。
会社員は肩書きに包まれ、
父親は役割に包まれ、
公務員は規則に包まれる。
やがて包みは中身と区別がつかなくなる。
中身は薄くなり、包み紙だけが残る。
「定年退職」という言葉がある。
これもまた穏当で、角の取れた語である。だが実際には、それは一つの所在の消滅である。毎日通っていた場所、毎日名を呼ばれていた場面、それらが一挙に失われる。人は急に行き場を失う。
しかし放送は流れない。
「本日、ひとりの男が、役割を失いました」
そんな知らせは町内には響かない。
響かないが、確実に、誰かがいなくなっている。
制度は優しい。
少なくとも外見上は。
それは人を守るためにあり、混乱を防ぐためにあり、安心を保証するためにある。
だが制度は、個人の輪郭を必要としない。
必要なのは年齢と性別と身長と住所であり、
それ以上のものではない。
だから人は、ときどき、あまりに整った言葉の中で、静かに薄くなる。
怒りも絶望もなく、ただ摩耗する。
誰も騒がない。
誰も探さない。
なぜなら、記録上はそこに存在しているからである。
行方不明とは、記録から消えることではなく、
記録の中だけに存在することなのかもしれない。
そう考えると、「無事見つかりました」という放送は、奇妙な響きを持つ。
見つかるとは、何をもって見つかったというのか。
呼吸か、脈か、それともただ確認されたという事実か。
もっとも、放送にさえ乗らない失踪もある。
家の中で、ひとりの老人が、少しずつ道順を失っていく。
昨日の夕食を忘れ、
今朝の自分の年齢を忘れ、
やがて自分の名の重みさえ、手放していく。
家族は気づく。
だが町は気づかない。
所在は明らかだからである。
住所も部屋も、戸籍も保険証も、きちんとある。
外から見れば、その人は確かにそこにいる。
だがその人自身は、
自分の内側で、どこにいるのか分からなくなっている。
それは捜索の対象にならない。
放送の文面に適さない。
年齢と身長と服装で言い表せない。
だから沈黙する。
沈黙のうちに、
ひとりの人間が、自分から遠ざかる。
もし人が、自分自身を見失ったまま、それでも社会の中で正確に呼ばれ、分類され、処理され続けるとしたら、その人は果たして行方不明なのか、そうでないのか。
答えは出ない。
ただ夕方の町に、今日も放送が流れる。
どこかで誰かが探されている。
そして同時に、
探されることもなく、
記録の中に整然と存在しながら、
自分の内側で静かに道を失っていく人がいる。
放送はそれを告げない。
告げないが、
確かに、誰かがいなくなっている。