いた。
後期

濡れた布が顔に触れると、
母親の腹の中みたいな匂いがする。
生ぬるくて、逃げ場がない。

そのまま息を吸う。
拒めばいいのに、従順だ。

俺は普通だ。
自分でも驚くほど。

決まった時間に起き、決まった道を歩き、決まった顔で挨拶をする。
誰に?

濡れた布の匂いが
まだ鼻の奥に残っている。
腹の中に戻されたみたいだ。
押し込まれて、丸められて、
外へ出る前の形に戻される。
親父のイチモツの奥で
ドロドロになった気がする。

町は柔らかい。
柔らかくて、たいぶ沈む。
踏みしめるたび、
ほとんど自分が消える。

俺は消えていない。
ちゃんといる。
いた。
書類を揃え、印鑑を押し、
昼には定食屋で味噌汁を飲む。
何も感じない。
感じないことが、少し気になる。
ドロドロのまま。

向かいの席の男が笑う。
箸を動かしながら、
世間話をする。
天気の話。景気の話。
誰かの引っ越しの話。

俺は頷く。
頷きながら、
その男の喉の奥を想像する。
声が生まれる場所。
暗くて、ぬるい。
指を突っ込むと、
吐瀉くする繊細なドアノブ。
それを掴んで廻してもいいが、
蹴破るのも、日常の一部だ。

あゝ、いけない事を二人で
していたんだなぁ。こっそりと。

濡れた布と同じ匂いがする気がする。

誰も疑わない。
疑う理由がない。
疑う言葉を教えられていないのだから。
なぁ、先生。
あんたも黙ってたよなぁ。
俺の口で。

夕方、洗濯物を取り込むとき、
指先が少し震える。
首を骨まで絞め続ける。
風で揺れただけの布を、
何かの皮膚みたいに思う。

裏返す。
畳む。
重ねる。
何を?
拭う事を行動に
どうか加えてくれ。

整然としている。
どの家も似たような布を干し、
似たような匂いを吸い、
似たような顔で夕飯を食べる。

それなのに、
どこかで綻びが広がっている。
これをどう処分するかだ。
これは重大な課題だよ。

音はしない。
破れる音はしない。
ただ、内側で繊維がほつれる。
切れない刃物ほど、
己を正当化する道具はない。

俺は怒っていない。
悲しんでもいない。
ただ、少しだけ、
自分の位置が分からない。
こいつの位置が大幅に、
変わったからかも知れない。

布が乾く。
匂いが薄れる。
夜になる。

布団に入ると、またあのぬるさが戻る。
逃げ場がない。

目を閉じる。
誰の?
俺のもだ。

今日も何も起きなかった。
誰も傷ついていない。
俺も傷ついていない。
表面上は。

それなのに、
胸の奥で、
ごく小さな裂け目が
静かに、確実に、
人型の穴になっていく。


自由詩 いた。 Copyright 後期 2026-02-22 13:50:12
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