小説の習作 原稿用紙三頁 #10
田中教平

 ユウスケは深夜、三時頃、目を覚ました。
彼は二階キッチンの換気扇の下、煙草を喫った。手のひらを眺めると、ピクついた。彼の心中のバランスは崩れていた。崩れて、いつまでも戻らない。不穏な感じがずっと続いて、まるで裁判の出廷前だった。彼の不快な感じを表す適当な語を、彼は知らなかった。すると、自然、それは事件の記された小説の中に見いだしてもいいと、彼は考えた。本棚を探った。本棚の在る書斎は寒かった。彼が選んだのは夏目漱石の「門」であった。
 空が明るくなって、妻のカナにユウスケは本日、事業所に行くのか問われた。カナ、彼女から見てユウスケは鬱状態に思われた。それから何度同じ事を訊いても、ユウスケはわからないものだから、苛々した。彼は書斎の机にぼうっとして、手元の本も、視線は本から外れている事が多かったから、本を読んでいる体(てい)をしていたかったのかも知れぬ、とカナは察した。
 ユウスケは朝風呂に入る事にした。ともかく陰気を紛らわしたかったから。時刻は八時半であった。ずっと、ずっと風呂に入っていてもいいような気がした。浴室に光が射しこんでくるのを、湯に浸りながら眺めていると、彼はこれも一つの現実逃避であると認めた。
 ユウスケが服を着て、一階、書斎にその身を戻すと、暖房が効いていた。妻のカナが自身の小説の推敲をしていた。カナは彼に、小説について色々な事を問いただした。ユウスケにとって答えに自信が無い。考えられた事はその、推敲を行う前と後とで、文体の確立が成されていなければならない、という事だった。それを伝えようとすると、声が細かった。カナは笑った。
 ユウスケは机につくと、又、夏目漱石の「門」をひらいた。正直、読めなかった。
 集中力が散漫になっていた。或るインターネット上の問題が浮上した。いいや、その問題はずっとあった。ただ彼が視線を逸らし、朝の内は考えないようにしていただけだ。
 ユウスケは詩の感想を求められていた。この詩はどう思いますか。この詩はどう思いますか。インターネット上の膨大な作品群を前に彼はたじろいだ。おまけに、彼の頭は散文の事で一杯だった。詩の脳、散文の脳、あるとすれば、彼は散文の脳で詩を見つめざるをえなかった。
 彼は詩の感想の内に、その、痛苦、彼は痛苦の語を見つけた、痛苦の心境を赤裸々に告白する事にした。
──私には詩が分からない。いや、以前はわかったと思っていたが、今、さっぱりだ。しかし、詩は開かれている。私のような詩の読めない人間を、突き動かしてこそ、良い詩なのだろう、と。
 内実は、詩との決別であった。いいや、詩の方から彼は捨てられた。そして、散文の潮流の中に入ってゆく覚悟をした。


散文(批評随筆小説等) 小説の習作 原稿用紙三頁 #10 Copyright 田中教平 2026-02-22 13:37:36
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