客人
後期
あの人は、夜になると机に向かう。
昼間は静かで、どこか所在なげに庭を歩いているくせに、夜になると別人のように背を丸め、灯りの下で紙に向かう。私はその背中を、何度も見てきた。
ランプの火が揺れるたび、影も揺れる。
影はいつも、少しだけ本人より濃くて目を逸らしてしまう。
「まだ、眠らないのですか?」
そう声をかけると、あの人は曖昧に笑う。笑うが、目が笑っていない。何かに耳を澄ましているような顔をしている。
ある晩、衣擦れの音がした、と言った。
誰もいないのに、背後に気配がある、と言った。
私は障子を確かめ、戸締まりを見、火の元を点検した。どこにも異常はない。だが、あの人は首を振る。
「外ではない。内だよ。」
そう言う。
内とはどこか。
胸のうちか、頭のうちか。
原稿を書きながら、突然筆を止める。
そして、しばらく動かなくなる。
私は台所からそっと覗く。あの人の肩がわずかに震えていることがある。泣いているのかと思うが、そうではない。ただ何かと戦っているように見える。
客人がいる、とあの人は言う。
私は思う。
客人などいない。
いるのは、あの人自身だ。
あの人は他人様の罪を書く。裏切りや嫉妬や、胸の奥の濁ったものを、容赦なく紙に落とす。読むと胸が冷えるような話ばかりだ。あの人はそれを「真実」と呼ぶ。
だが真実は、書けば書くほど、書き手に返って来るのではないか。私はそう問いかけたくなる。
ある夜、あの人は鏡の前に立ち、長いこと自分の顔を見つめていた。私は襖の陰からその姿を見ていた。鏡に映る横顔は、ひどく疲れていた。
「お前は臆病者だ。」
小さく、そう呟いた。
私は噛み殺した。誰に向かって言ったのか。鏡の中の自分か、それとも私か。
あの人は優しい。
少なくとも、かつてはそうだった。
だが優しさは、ときに人を責める。
正しくあろうとする気持ちは、他人より先に自分を断罪する。
客人とは、赦さない心なのですか?
あの人は自分を赦さない。
些細な過ちを、いつまでも胸の中で繰り返す。友人への猜疑も、私への冷たい言葉も、すべて覚えている。そしてそれを物語に変える。
物語にすれば、消えると思っているのかもしれない。
だが消えない。
夜、灯りを消したあと、闇の中であの人の呼吸が荒くなることがある。私は隣で目を閉じたまま、その気配を感じる。声は聞こえない。けれど、何かがあの人の胸の奥で囁いているのだろう。
私はそっと手を伸ばす。
あの人の背に触れる。
身体は妙に温かい。
それだけは確かだ。
客人がいるなら、ここにはいない。
血の通うこの身体の外にはいない。
だが、あの人はそれを信じない。
信じないどころか、その客人を手放そうとしない。あれがなければ書けない、とでも言うように。
私は思う。
客人とは、あの人の才能ではないか。
鋭すぎる目、深すぎる心。
それが自分自身を裂いている。
闇の中で、あの人が微かに笑う。
私はその音を聞きながら、目を閉じる。
客人は去らない
だが、もし去ったなら、
あの人は何も書けなくなるだろう
それがいちばん恐ろしい