私の快楽主義
鏡ミラー文志

ただ面白いこと楽しいことについてひたすら考え、それに芯から爪先まで没頭している人が好きだ。自分もそうしていたいし、そうでありたいと願う。
作品作りは欠かせない。作品は空を飛ぶための道具だ。飛行機だ。翼作りのアイデアを認め、骨組みを作り、肉付きを得る。
不真面目な設計では、空も飛べない。風に晒され、直ぐに分解されて壊れてしまう。赤塚不二夫先生は
「もっと真面目にふざけなさいよ」
と言った。鑑賞者と一緒に飛距離を楽しむには、骨組みのしっかりした充分な設計によるおふざけでなければダメなのだ。最近では『おならうた』が良く出来た方だ。一歩一歩だが、着実にギャグメーカーとして成長しているのではないだろうか? 赤塚先生、ドリフターズ、とんねるずからダウンタウン、好きなものから嫌いなものまで皆、一所懸命楽しいこと面白いことについて切磋琢磨して技を鍛え、考え抜いてきた。ネットの世界について思う。政治に偏り過ぎていないか? と。勿論私だって政治ごとには関心がある。日本はどこへ行くのか? 皆が右だ左だという意見を聞き、時に議論に参加することもある。しかし面白いこと楽しいこと、昔で言えば粋だねと思わせるような阿吽の呼吸が感じられる絶妙な語らい。そういうものはネット上には皆無である。
今芸能事業所ではボイトレをやっている。詳しいことはあまり言わないでおく。ここで面白きことに没頭したいという思いはまだ叶わないでいる。自分のやりたいことを必ずしも叶えてくれる場所ではなく、福祉としての建前や営利ありきのようなところもあるから、仕方ない。
仕方ないは大事だ。仕方ないと言えば第二次世界大戦で特攻に行って死んでいった人々には二つの仕方ないがあった。止むに止まれぬ大義を感じ、積極的に火の海に飛び込んだもの。そして怯えながら世間の空気に逆らえず強制的に玉砕に向かったもの。しかしそれでもあの時代の日本には大義があった。
福祉界の現状について、内部の人間としてあまり語るべきか考えものであるが、どんどんB型就労も潰れていっているそうだ。生活保護があれば食える。障害者年金があればやっていける。頑張るのが馬鹿馬鹿しい社会では、誰も仕方なしと止むを得ずの労働に従事することは出来ないだろう。昔の人達は勤務労働を本願とし、仕方なしと止むを得ずの宿命を好んで受け入れたそうだ。今の人達に必然的にこれをやらなければいけないというほどのものがあるのだろうか? グループホームに住んでいるのであるが、中に住んでいる一名の利用者について触れたいと思う。自分が気狂いだから仕方なしと好んで奇天烈な振る舞いをし、それを芯から楽しみ、この振る舞いを続けていれば働かずに年金生活安泰とでも言わんばかりである。医者は神様ですと崇め奉っているようであるが、働かずに飯を食わせてくれる人は皆が神様なのだろう。この人間にとっての仕方なしは働かずにいることが仕方なしであり、それに飯を与えるお上の仕方なしなのだ。まさに人権に守られたご都合仕方なしである。

次男について今まで触れていなかった。私には賢き親しい人が数名いる。私に近寄ってくる人興味を示す人は大抵賢い人、賢きところがある人なのだが、次男は中々聡明なところがあった。私を虐めた長男と、ある時期から距離を取るようにしていた。相手を侮蔑し、相手が怯むと上手くそのまま距離を取り続けた。長男には間違いなく愚かなところが溢れていたから、そういう人間と距離を取るのは間違いなく正解なのだが、私にはそれが上手く出来ずに闘ったり時にはあろうことか仲良くしさえしてしまった。それは私のダメさでもあり、個性でもあろう。次男にもそういうところはあったが、私ほどそういう側面は強くなかったと思う。他人との距離感や線引きを引くのがとてもお上手。それは自立心が強いということなのか? どうなのだろう?
とにかく次男は家族から自立していち早く公認会計士の資格を取り、妻子持ちにさえなった。私とは幼き頃良くごっこ遊びをして遊んだ仲である。お風呂場で風呂の蓋を境に置いて入浴している私と次男が両脇に座り、彼がなにかに成り切って喋りだすと、私もなにかの役に成り切って、二人で軽芝居をやる。家の前にあるレンガの塀でサッカーをやりながら、部屋の中で、プールの中で、二人の軽芝居とごっこ遊びは続く。私がお話作りが多少上手なのもこの次男とのごっこ遊びが根にあるのかも知れない。次男の中でも私の創作性を認め、大したところがあると認められるところがもしあるとしたら、この飛距離を楽しむ遊ぶ原点の飛行機の元は、二人で作った翼だと思うこともある。やはり仲間は賢くなければダメだ。次男は幼馴染のほとんどを馬鹿ばかりだったと正直に振り返ったことがあったが、次男の友達には賢い人もいたと思うし、その人達は私のことも、ジュニアと言って可愛がってくれた。

私は結構年上の人、賢い人、大人な香りのする人に可愛がられるところがある。それは昔からだ。同世代には思い浮かばない。皆どこかアンポンタンなところがあり、ダメな人間を崇め、嘘や偽善に鈍感だ。

ただ面白いこと楽しいことについてひたすら考え、それに芯から爪先まで没頭している人が好きだ。自分もそうしていたいし、そうでありたいと願う。

冒頭に述べたそんな思いは、永遠に続く官能の世界を生きたいと願う叶わぬ願いを表しているようにも思えるし、そのために他人に厳しく辛く当たってしまうこともしばしばある私である。下品なもの、考えの甘いもの、幼稚なもの、そういうものに冷たく厳しい。

AV動画を閲覧していると、まるで他人が幸せを楽しんでいるのが好きであるかのような自分が善人である錯覚を覚えてしまう。

AVに思考による飛距離はあまりない。プレイもこれはというものにはそうはお目にかかれない。ただやはり知能プレイが好きなことには変わりはない。俺ならもっとアーティスティックで創作性に富んだ作品が作れると思ってしまう。

おっぱいおでんプレイというのを考え、アイデアを披露したら周囲に結構ウケた。
おでんのネタを串に挟み、女の右胸に辛子、左胸には味噌。それを塗っておでんネタを楽しむというアイデア。こういうギャグポルノのようなものなら何作でも作れる自信がある。

私は快楽主義者だ。
夏の昼下がりに飲むサイダー、コーラ、アイスクリーム、麦酒。それらのものも大好きだ。
もっともっと楽しい考えやアイデアを皆で楽しみシェアし続けたい。私のこれからの人生は続く。


散文(批評随筆小説等) 私の快楽主義 Copyright 鏡ミラー文志 2026-02-18 18:13:16
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