[LGBTIQの詩人たちの英詩翻訳 しょの2」
田中宏輔2 ラファエル・カンポ聖母子
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=395437
ラファエル・カンポ「聖母子」の〈翻訳〉となってい
ますがこれは〈翻訳〉ではなく〈翻案〉です。〈翻
案〉とは「原作を素材として、別の作品を作る」こと
なんですが、なぜ翻訳(意訳)ではなくこれが別作品
であるか。
原作の同一性が失われているからです。ひとつ例をあ
げれば語り手が違います。でも、
一般読者は、これは ラファエル・カンポ の詩そのも
のだという前提で読みます。多少の意訳であっても、
語り手、構図、出来事、主題の骨格は共有されている
ものと無意識に期待します。それが「翻訳あるいは意
訳」という表記の信頼性です。
しかしこれだけ改変されているのに翻訳と銘打つのは
倫理的には問題といえます。
しかし、本文ではそのことの倫理的な違和を云々する
のが主旨ではありません。そんなことはわたしにとっ
てはどうでもいいことです。(むしろどうせするなら
もっと徹底して翻案してもよかったと思います)わた
しが問題にしたいのは別の事件です。
つまりこうです。「嗚呼」という嘆息です。
田中宏輔氏が批判や批評のないネット世界に詩を投稿
している間にどんどん劣化していくことへの嘆きです。
周囲に文学を理解できない称賛者や賛美者ばかりを取
り巻かせているあいだに知らぬうちにダメになり自分
がどれほど弛緩した文学を書いてしまっているかわか
らなくなっている。そりゃそうだ、今のご時世、厳し
い辛辣な批判なんかしてくれる友達などいない。だか
らいつのまにか自信満々なのはいい。しかし一方で、
文学やるものが謙虚さを失ったらお終いです。
カンポ「聖母子」をネタにしたこの作品をみて真っ先に
感じたのは(翻案文)の語り口のチープさです。
語りのリズムが均質で、訳者固有の文体よりも“翻訳小
説的標準語り”が前面に出ている。わたしがもっとも
懸念する
作者の主体を放棄したいわゆる村上春樹的な翻訳標準文
体とでもいうべきものです。
ほんの一例をしめせば、以下の如く。
「〜なんだ」「〜なんだけど」「それって」「ちゃった」
の多用。
月経がとまって、お母さんがなくしちゃったの
は、女性ホルモンだけじゃないんだ。
彼女は自分の長男もなくしちゃったんだ。
それって、ぼくのことで、ぼくって、おかまだけど、
彼女は、そんな痛みには耐えられないんだ。
しかし、わたしたちが馴染んだこのワンパタ翻訳語りのリズ
ムは一種、なんの抵抗もなくある種の快感をともなってすん
なりと胃の腑に落ちていく効果をもっている。
これを汎用翻訳調のリズムではなく70年代の文芸小説風な
語り口でやれば、それこそ硬くて読めないでしょうね。
しかしです。
ほんとうはここで踏ん張って立ちどまるのがまともな詩人
だとわたしは思うのです。(そもそもフォルマリストの田中
宏輔氏らしくない)
わたしが指摘するまでもなくご本人が気づいてほしいのです
が、この別作品は大幅に翻案されたものとはいえ象徴レベル
では重要な接点をもっています。それは、
ひとつには「母と息子の二者関係」です。
原作では崩壊しゆく身体と、それでも残る母の抱擁といった
「揺るぎのない愛」が通底音として流れていますが、翻案の
ほうでは母は息子を抱かないし、息子は母の愛を疑う。つま
り翻案作品においては愛が揺らいでいるし、抱擁が不安定で
す。同性愛は「自然に反する」といった母が信じる価値観が
息子を傷つけている。
そして本来なら、この心のゆらぎや不安定さは文体として表
出されるはずです。ところが、それが語られるのは強固です
ぃすぃと嚥下されやすい出来合いのハンバーガーショップの
ドリンクみたいなワンパタ文体です。
いや、もちろんそれもいいですよ。ひねりが効いて面白いと
いう弁明も成り立つ。翻案は原詩の主題を裏返しにした読み
から成り立っているから、原文の「英雄詩句形式」の硬質な
文体や雰囲気をくつ返してみせるのも当然でしょう。この翻
案が原作の反転という構造をもっているから一見それが筋が
通っているようにみえる。
でもわたしは田中宏輔氏がそういうことわかってこの翻訳調文
体をやったとは思えない。それは本人が一番わかっているはず
ですが、わたしには無自覚なままこの文体に文学主体の意識が
放棄されて流れ込んでいる印象をうける。
翻案作品は原作の構図を反転して、母の愛が揺らぎ、抱擁が
不安定になり、語り手自身も傷ついているという方向を選ん
だ。ならば文体そのものが揺れなければおかしい。
ところが「〜なんだ」「〜なんだけど」「ちゃって」の均質な
語尾論理接続が整然とつづく。
田中宏輔氏は詩人にとって一番大事な生命線にすら無自覚にな
っているのじゃないか?もし、意図的にやっているならそれは
どうなんだろう。田中氏の得意とする全行引用詩は形式として
の主体の放棄、既存文学の暴力的革命的な全否定につながるも
のだけど、
このような翻案作品もひょっとすると無意識にそのような文学
破壊路線にそったものかも知れません。それ
ならそれで面白いような気がしないでもないとはいえ、
この翻案の文体、朝に鳴くニワトリみたいで失笑を覚えるな。
あひっ!