『越境の衝動』 第四章/声が先か、風が先か
板谷みきょう

最初に動いたのは空気だった。

丘の反対側、
澄乃は口を開く準備だけをして、
立ち止まっていた。

風が来る。

春一番ではないが、
沈黙を正当化するには
強すぎる風だった。

澄乃が息を吐く直前、風が喉を撫でた。

声が、ずれる。

音になり損ねた何かが
風に混じって外へ出た。

それは言葉ではなく、
ただ「在る」という衝動だった。

同じ瞬間、吉だったものが足を止めた。

呼ばれた気がした。

名はなく、呼び声でもない。

それでも、
自分に向けられた揺れがあった。

澄乃は出ていった音を追いかけない。

追えば言葉になり、
再び沈黙を必要とするからだ。

名を失ったものは、
声を受け取る器になりうる。

その事実だけが、
二人を同じ季節へ押し出した。


散文(批評随筆小説等) 『越境の衝動』 第四章/声が先か、風が先か Copyright 板谷みきょう 2026-02-12 11:46:43
notebook Home
この文書は以下の文書グループに登録されています。
童話モドキ