小説の習作 原稿用紙八頁 #04
田中教平
起きると時計は七時を指していた。本日は水曜で、ゴミ出しは無かった。安堵しつつ、体中が重たかった。窓から外に目をやると雨が降っている。ここでユウスケの鬱っ気を確信した。一階寝室から出て、二階キッチンに向かう。妻のカナが、朝の情報番組を観ている。フィギュアスケートの話題だ。カナはフィギュアスケートを観る事が大好きだった。
ユウスケは鬱っ気の事をカナに伝えなかった。カナは
「あ、朝食、いる、よね?」
と訊いた。ユウスケは、うん、と首を縦にふった。ユウスケは白米ご飯に納豆のパック、箸、を受けとると、いただきます、と告げて、パックを開けて納豆を練りはじめた。
「わたしも食べようかしら」
「え、朝食まだだった?」
「うん」
それからカナはちょっと考えて、ユウスケに最近自分が怒りすぎてしまう事について相談した。ユウスケも確かにカナが最近、やけに怒りを発露していたのが気になっていたが、それを客観視する目を持っていたのか。
「それはさ、怒るっていうのは、ぶっちゃけていうと、気持ちのいい事なんだよ。一応それだけ押さえててくれるかな」
「わたし、何か味をしめちゃったのか。取り敢えず、リボトリールとコントミンを飲んでおくね」
ユウスケは飯を平らげると、茶碗をキッチンシンクに下げに行った。そして朝シャワーを浴びようと思って、洗面所に向かい、服を脱いだ。暦の上では春だったが、未だ寒い、二月中旬のアタマであった。
ユウスケは浴室に入って、温水シャワーを浴びた。シャンプー、コンディショナー、ボディソープは昨晩、風呂に入ったときに洗っていたので出番は無い。しめ、は冷水シャワーにしようかと思ったが、今日はよしておいた。
カナが洗濯を代わりにしてくれた。ユウスケと言えば「一人」に引きこもってしまった。
ユウスケは鬱っ気が出るとこういう孤独癖が出る。一階寝室にいた。夏目漱石の「こころ」の文庫本を読んでいた。急に胃の入り口あたりが痛んだ。ユウスケは驚いていたら、次に吐き気が来た。
(今日の仕事、どうすればいいんだ)
カナが寝室に来た。一人になりたいユウスケは寝ているカナを尻目に、書斎に向かった。
暖房をつけて、一人、机にかじりついて考えていた。胃の入り口あたりの皮膚を、指で押す。痛みが走る。外の雨は一向に止みそうにない。ユウスケは今日事業所を欠勤する事にして、スマートフォンで連絡を入れた。
連絡を終えると、ユウスケはスマートフォンを伏せて、しばらく机に額をつけた。雨音が一定のリズムで窓を叩いている。外の世界が遠くなるような音だった。
胃の痛みはまだ残っている。深呼吸をしてみるが、胸の奥がつかえる。
(今日は、無理だ)
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
書斎の空気は暖房で乾いている。ユウスケは椅子にもたれ、天井を見上げた。何も考えたくないのに、考えが勝手に動き出す。事業所のこと、カナの怒りのこと、昨日の自分の行動。どれも重たくて、手に負えなかった。
階段の方から、そっと足音がした。カナだ。
「大丈夫?」
扉の向こうから声だけが届く。
「うん。ちょっと休んでるだけ」
声は出たが、自分の声ではないように聞こえた。
カナはそれ以上何も言わず、階段を昇っていった。
その気配が消えると、ユウスケは机の上の「こころ」を手に取った。読みかけのページを開く。文字が目に入るのに、意味が頭に入ってこない。ページを閉じる。
雨はまだ降っている。
ユウスケは、今日という一日が長くなる予感を、静かに受け入れた。
ユウスケはノートパソコンを立ち上げた。WORDを立ち上げ、書きかけの私小説について筋の整理を行おうとした。しかし、パソコンを前にしてユウスケの指は動かない。
(こんな事書いたっけ?)
ユウスケは原稿全てに目を通す必要性にかられた。
ユウスケは原稿をスクロールして、一番はじめの、書き出しに戻った。昨日自分で書いた言葉たちが、どこか遠い声になってしまっているような気がした。ワン・センテンス読む度に、胃の入口が閉められるような気がした。
ユウスケは、ハッと気づいて、パソコン上に、カレンダーを表示した。数字が赤かったので、祝日だ。
(今日も、市役所には行けなかったな)
小さく息が漏れた。肩が落ちる。胃の入口がまたきゅっと縮んだ。
伊藤園の『おーいお茶』は2ケース頼んであった。カナの俳句が掲載されている、特別生産品だった。ダンボールの箱の中から、おーいお茶のペットボトルを一本取る。キャップを開けて、グイグイと飲む。
「あ、カナも二階に冷やしたのがある」
カナも書斎にお茶のペットボトルを持ち込んで、グイグイと飲んだ。
カナはスマートフォンを手に
「明日は買い出しについてこれる?」
と言った。よく聞き取れなかったユウスケは
「え?明日?何?」
と返すと
「だから、明日買い出しについてこれるって聞いてるのよ!」
と、カナが怒り口調で言った。
「何、怒ってるんだよ、だから、聞き取れなかったんだよ。ついていきますよ」
カナはため息をついた。
「ご免、なんか怒りっぽくなっちゃって」
ユウスケは、おーいお茶のペットボトルを机に置いた。カナの「ご免」という声は、どこか遠くから届くように聞こえた。
「いいよ、別に。気にしてないよ」と言おうとして、声が喉の奥でつかえた。代わり、曖昧なうなずきだけが出た。
雨脚は少し強くなっている。窓の外の景色が、薄い膜をかけられたようにぼやけて見えた。
カナはスマートフォンをいじりながら、ぽつりと言った。
「なんかさ、最近、自分でもよくわからないの。怒りが先に出ちゃうのよ。ほんとは、そんなつもりじゃないのに」
ユウスケはペットボトルのキャップを指で転がした。
「うん・・・まあ、そういう時期なんじゃないの」
自分でも驚くほど、単調な声だった。
カナは少しだけ笑った。
「ユウスケって、そういうとこあるよね。淡々としてるっていうか」
淡々。淡々としている。
ユウスケは、机の上のノートパソコンに視線を戻した。画面には、自分が書いた文章が並んでいる。
昨日の自分が書いた言葉たちが、今日の自分にはまるで他人の手紙のように感じられた。
「ねえ、ユウスケ」
カナがまた声をかけた。
「明日、ほんとに大丈夫?無理しないでよ」
ユウスケは、少しだけ息を吸って、言った。
「うん。行くよ。行けると思う」
十二時になった。そして二人昼食を摂る事にした。