詩人は局外者であるべきである
岡部淳太郎

――または「観察者としてのわが人生」


最近、またしても嫌だなと思うことが目につくようになった。それは二〇二六年二月に行われた衆議院議員選挙で与党の自民党が大勝し、それにかこつけてある野党の元党首が高市早苗首相を批判する投稿をSNS上に行い、詩人たちがそれにが賛同したことである。僕が嫌だなと感じたのはそうした政治的主張の是非にはない。嫌だったのは、詩人がそうした政治的空気に呑みこまれてしまったことそのものの方にある。僕はこれまで散々そうした詩人たちの「政治的態度」に異議を呈してきた。詳しくは僕がオンデマンデで刊行した個人誌「DIRT」や今年これまたオンデマンドで刊行予定の長編評論『世界を理解する手がかりとしての詩』を参照してほしいのだが、僕は詩人が政治的言説に(それが右であろうと左であろうと)流れてそれを無批判に拡散するのにははっきり反対の立場を取っている。
 詩人はそうした政治的態度を示すべきではないというのが、昔からの僕の考えだ。それは特に日本の詩人の場合は左翼的傾向を示すことが非常に多く、具体的な主張としては「戦争反対」「改憲反対」「原発反対」「自衛隊反対」といった立場を取ることが多い。繰り返すが、そうした政治的態度や主張に異議を唱えているわけではない。詩を書くという能動的行為を自ら選択したのにも関わらず、詩人でなくても他の誰かが言いうるような当たり前のことを詩人が言ってしまっていることそのものの方にある。そうした主張は詩人でなくとも、たとえば「プロ市民」のような人でも簡単に言える。詩人であるならば、そのようなことを言う前に言うべきことがもっとあるのではないか。要するに僕は、詩人にはもっと芸術主義的というか政治などというそうした浮き草から離れて超然としていてほしいのだ。
 つまり、ここで言う超然としたというのは、局外者として世の事象を眺めていてほしいし、そうあるべきだということだ、さて、ここで局外者とは何かという疑問が当然出て来るだろうが、それはこの世の事象から離れてそれらを他人事のような視線で眺める立場に立つ者のことだ。もちろん詩人とてこの世の中に生きている個人であることは他の詩人でない大多数の人々と変らないのだから、この世の事象から完全に離れて仙人のようになることは不可能だが、僕は態度のことを言っているのだ。そう考えると、詩人たちは時にあまりにも無防備に世の事象(特に政治的事象)に引きずられすぎるし、それに呑みこまれすぎのように見える。それは詩人たちが自らの固有の言葉を失って世の中で喧伝されている「正しい」言葉の方にどんどん引きずられてしまうように思えて、そこに「詩人の死」を見ているようで、それが僕には恐ろしくてたまらないのだ。もちろん詩人たちが言う「政治的主張」は一面では正しいように見える。だが、正しそうに見えることが曲者だ。その「正しさ」をみんなが異口同音に言っていることが気になる。他の誰かがこれは正しいのだと主張し、それを見ている自分も大して考えもせずに、そうだな、これは正しいよなと付和雷同で同意してはいまいか。彼等は(とここでは思いきりそうした詩人たちを自分自身から引き離して語ってしまうが、お許し願いたい。もちろんこうした語り方をすることで僕自身が一人「孤高」の地位に立っているように思われる危険性は承知のうえだ)一様に「戦争反対」を叫び「平和」を掲げるが、そうして他者の意見を大して点検もせずにその「正しさ」の方に引きずられる方が、よほど彼等が反対する戦争の機運を形作る精神的土壌を育ててはいまいか、そう僕は危惧するのだ。
 勘違いしてほしくないのだが、僕だって戦争になるのは嫌だし平和なのが一番だと思う。だが、僕はあえてそうした政治的言説に与しない。僕は僕という一個人の声を守りたいのだ。だから僕は政治的言説を行わないし、戦争反対を叫びもしない。そうした「公」」の声を上げることは、あくまでも一個人でいたい僕の考えに反する。だから僕は正しいことを言わない。正しさなどそこらの野良犬にでも食わせておけばいい。
 おそらく僕のこのような態度は思い切り少数派であるだろう。詩人たちはいとも簡単に連帯し「戦争反対」や「平和」といった正しいことを叫ぶが、そこに果たしてそれぞれの詩人の個人の声はあるのか、非常に疑問だ。彼等は自らの外部にあるはずの事象たちに容易に飲みこまれ、それらを外から眺める局外者の視点を持つことはない。おそらく彼等には孤独であろうとする覚悟が足りない。人と簡単に肩を組み、自らが何者であるかという哲学的問いを発することは少ない。だから孤独を恐れ、単独者たらんとする心意気のようなものを持てずに、「正しさ」の方に引きずられてしまう。だが、本当はそれではいけないのだ。卑しくも詩人であるならば(などと、またしても反感を買うような言い方をしてしまうが)、孤独であることを恐れず、自ら瀬局的に異物たらんと志して、局外者であろうとするべきなのだ、
 僕がこのような考えを持つに至った背景には、僕自身の長い孤独の歴史がある。僕には昔から友と呼べる者も少なく、恋人もおらず、還暦近い年になってもいまだ独身のままだ。詩を書くのも書き始めてからしばらくの間は蚕が眉の糸を吐きつづけるように、誰にも見せずに一人黙々と書いてきた。ささやかな仕事も果たせず、社会的には底辺の落後者であったと言っていい。そうした人生を送っていれば、このように世の事象を外側から眺める局外者の意識が育まれて当然だ。だが、このようなあえて言うなら「情けない人生」を送る者はあまりいない。詩人となればなおさらだ。しかし、僕は長年の間に培われた孤独を信頼しているし、そこから導き出された「答」にも全幅の信頼を置いている。いい年して情けない奴だと笑わば笑え。僕には孤独が教えてくれた「答」が傍にある。だから僕は決して挫けないし負けることなどないのだ。
 随分と昔に「どこか遠くで」という詩を書いた。この『現代詩フォーラム』にも初期詩篇の一部として発表したはずだが見当たらない。削除してしまったのだろうか。いま手元にある一部限りの手作り詩集(そのようなものを作っていたのだ)『逆回りの螺旋』を見ると、一九九二年二月一九日の日付がある。そこに僕は「観察者としてのわが人生」という詩行を書いている。何とも示唆的な一行だと思うし、三十四年も前にこのような詩行を書けたことにわれながら驚愕する。思えば僕は観察者としての人生を生きてきた。この世の事象をただ観察し、その中に自らの主体を投げこむことなく、常に一歩引いた視点からそれらを眺めて詩にしてきた。だから僕は孤独だったし、この世のはぐれ者、局外者(コリン・ウィルソンの言葉を借りるならばアウトサイダーであろう)の立場を保持しつづけてきた。そういう人生を過ごしてきたことに対して、いまさら何も言うまい。だが、僕個人の実感としては、そうした局外者の立場を取り世の事象を離れた視点から見続けてきたことは、僕にある種の強さをもたらしたし、「真実」という名の「答」を教えてくれたように思う。僕は孤独でどうしようもない人間だ。それは非常に情けないことではあるのだが、孤独であり事象の中に入りこんでこなかったからこそ気づけたこと、得られたものが多くあったと自負している。僕は孤独で、実に情けない存在だ。だが、そうありつづけたことを僕はちっとも後悔していないし、恥ずべきこととも思っていないのだ



(2026年2月)


散文(批評随筆小説等) 詩人は局外者であるべきである Copyright 岡部淳太郎 2026-02-11 13:20:30
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