見たもの
牛坂夏輝
副題に納得できないでいた、その頃に、ぼくはよく「予感」ということを、考えていた。受信され、併記された昼間のモダニズムのように、あるいは、美しい模型飛行機との関係や、深刻な影絵の世界のようにして、定型は抒情的な夜間の読者に、いささか奇異な、しかし誠実でもあるような独自性の困難というものを、差し出した。ぼくは、誰かに対して、編集されたロマン主義の帰国を、知らせただろうか。いまとなっては、併記された「翌日」についてや、またしても「予感」について、この簡潔な哲学のように、語ることはできない。アイロニー、架空の仕事机、最後の風船、記念式典の幼児、状況と成熟したカーテンの鋭さ。「きれいな図形のやり方で、激しく放棄された気遣い、引きちぎられた縫いぐるみの腕の客観性を、最適解などと、呼ぶことができると、思いますか?」考えられ、構造化された「曖昧さ」の中に、「予感」が散在しているということは、ないだろうか。ぼくの副題は、裏庭にいる小動物を俳句の中に加えなさいと、盛んに言い立てる内容のものだった。認知の変化、カプセルを埋める行為、漆喰の中で鳴るブクステフーデの音楽、ぼくは叫ぶ性質を、時間の翻訳者に持たせたい。しかし、いまは、この「予感」ということが見せている、この裂け目に対して、談話と、朗読の形式を、その幻覚の痕跡を、弱い波間に触れながら、たくましい植物群の影のゆらぎを傍目に、ぼくは、草木になりながら、沈めていくのだった。