凄いぞTOP10! 『迷いの森について』夏井椋也
室町 礼

修辞的にも思想的にもそれほど批評の釣り糸に
ひっかかるものがない、比較的平板な、横丁の兄
ちゃんがつくったポップソングの歌詞のような詩
です。(すいません、反省します!)
ひとことで言うと(ひとことで言って済みませんが
ひとことで言えちゃうので、ひとことで言いますが)

  おれのこと色々いうやついるけど、
  本当のおれは、おれだけが知っている

これで終わりです。きれいなものです。
これ以上でも以下でもない、さっぱりしたものです。
自己言及みたいな要素があるのでわたしの嫌いなポス
ト・モダンの言説を敷衍すれば、一見「主体の分散」
を肯定しているように見えますけど、その逆で「私は
オーナーである」という宣言が分散する自己を統括す
る「超越論的な主体」を設定しているので、ラカンの
精神分析的な視点から見ると「鏡像段階」における自
己像への固執ということになるかもしれません。
※ラカンは、イメージや直観的な思い込みの世界を「想
像界(imaginary)」と呼んでいます。自己像への固執は、
この想像界から抜け出せず、現実の不完全な自分を受け
入れられない状態です。これは自己愛(ナルシシズム)
の原点であり、自身の像を「理想の自分(理想自己)」
として愛する一方で、その像を維持することに固執しま
す。(=「迷いの森のオーナー」)そして鏡の中の自分
は「他者」です。つまり、自己像への固執は、自分自身
を「他者としてのイメージ」で認識する、本質的に疎外
された状態です。

すべての連に登場する「私の中の」という言葉(「私」)
という主語)が幼稚性の残滓を示しているともいえますが、
問題はこういった本当かどうかわからないラカンという
ひとりの人の思想の当否ではなくて、
最初に申し上げましたように詩としては修辞的にも思想
的にもまあ、なんというか平板な詩が、どうしてこう多く
の方の共感を呼ぶかというところにあります。
それが、わたしの「凄いぞTOP10!」シリーズのひとつの
研究目的なんですけれども
この現フォなら現フォでもいいですがネット投稿板という
共感の体系システムの中で、多くの詩が「傷つかない主体」
という幻想に寄り添いたがる。
詩を投稿すること── 「私はここにいる」というシグナル
イイネをすること── 「あなたがそこにいることを認める」
という返信。
ここでは「言葉がどれほど世界を切り開いたか」という強度
は問題にされず、「どれほど安全に自分たちを肯定し合えた
か」というホメオスタシス(恒常性維持)が優先される。

  私のことを見切ったように
  お花畑の管理人だとか
  胃下垂のペシミストだとか

  好き勝手に言うけれど
  私の正体を言い当てたものは
  残念ながら誰ひとりいない

わたしの正体はわたしだけが知っている。わたしはダイアモンド
のように傷つかない(むかしそんなタイトルの小説ありましたね)
という言明に多くの共感が集まり、TOP10に祭り上げられる。
全部がそうじゃないですが半分以上はそういう自己防衛的な詩が
共感を読んでいます。
現代詩における自己防衛とは、結局のところ「意味の決定権を誰
にも渡さない」という態度の現れです。
ウニの殻のように閉じこもる詩は、一見すると繊細で傷つきやす
い内面を表現しているように見えますが、その実、非常に強権的
です。「これは私にしかわからない聖域である」という前提を置
くことで、他者からの批評や介入をあらかじめ無効化している。
言語とは本来「開かれた公共のもの」です。しかし、現代の書き
手の多くは言葉を「自分を保護するためのシェルター」として私
物化してしまっている。
現代詩の役割は、安らぎを与えることではなく、私たちが拠り所
にしている「自己」という殻(森)がいかに脆いフィクションで
あるかを暴き出すことにあるのじゃないでしょうか。
「殻」を破る準備ができたとき作者の詩はきっと、仲間内の「い
いね」を沈黙させるほどの、静かで鋭い「事件」になるでしょう。


※ま、わたしの詩はイイネを沈黙させていますが「事件」になって
いるかどうか、わかりません。笑



散文(批評随筆小説等) 凄いぞTOP10! 『迷いの森について』夏井椋也 Copyright 室町 礼 2026-02-03 07:44:23
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