凄いぞTOP10『透明な残火』atsuchan69
室町 礼

この詩の静かな独白のなかで以下の詩句だけがかなり際立って
ポエジーを孕んでいる詩句ですが、

 好きだ、
 という言葉は

 洗われて
 白くなり
 冬空の下で干され
 吊るされた大根とともに
 揺れる

この詩の構造は現代詩においては一種の定型美ともいえるも
ので、次のような流れになっているのが見てとれます。
 1.感情を「物体」に置き換える(比喩)
 2.その物体を「風景」の中に置く(情景描写)
 3.最後に「静かな結末」で締める(余韻)
このフォーマットを使えば、中身が空っぽであっても、(誤
解のないように。この詩が「完全に空っぽ」だというつもり
はありません)一見すると「深みのある現代詩」に見えてし
まいます。こうした詩文は、既存の「詩的な雰囲気」という
ストックからパーツを組み立てているような印象を与えますけど
別にそれが「悪い」とか「ダメだ」というのではなく、わた
しはそれを「ポーズとしての詩」あるいは「演劇としての詩」
と呼びたいのです。まあ、あの、なんとか小鳥子さんもそう
いう傾向ありますけどね。この詩の「焦げていく」という結び
も、非常に演劇的ですよね。
本当に焦げている痛みがあるなら「朗らかに」なんてなかなか
言えないものですが、しかし、そう表現することで「悲劇を優
雅に乗りこなしている自分」という演技を完成させている。
読者はその「ポーズの美しさ」に拍手する。だけどその背後
にあるはずの「生身の人間」を見つけることはできない。
だって「透明な残火」ですから。
あるいは「洗われて白くな」って干された大根(この詩)です
から。人間臭い泥はすべて
洗い流されて、演劇としての、ポーズとしての詩句が、それ
ゆえにだれも傷つけないし、だけど誰の心も直接的にはつかま
ない、
しかし、演劇という仮構のポーズを通して人の共感を得る詩句
が並ぶ。わたしのような昭和戦後生まれの人間は「心から溢れ
出た切実な叫び」を聞かせろというかも知れませんが、そういう
いうのはもう「たんにダサい」のです。いまはもう言葉は
そういう風には使われていない。詩人という役を演じるための
「衣装」なんです。どうして詩の言葉が衣装になってしまったのか。
かつては詩による「魂の交換」なんてありましたが、今やそれは
ダサいだけではなく危険なんですよ。
その危険を回避するため読者は「作者が安全なシェルターの窓越
しに演じてみせる「絶望のポーズ」や「孤独の構え」を、客席か
ら眺めているに過ぎない。それが現フォ劇場です。
幕が下りれば、そこには何の傷も残らず、熱も残らない。このて
の詩は、しばしば「わかりやすい切なさ」を提供する。読者は
それを見て「わかる、私も寂しい」と拍手を送りますが、それは
作者の深い内面に触れたからではなく、自分の持っている既成の
感情を、詩という鏡に反射させたからです。
作者のかっこいい「演劇的なポーズ」に拍手して終わる虚しさを、
もしだれか、一人でも虚しいと感じる知性があるとすれば、それ
は昭和戦後のような感情過多の時代を通ってきて、いま、現在に
も生きている「両方の時代をみたことで冷静にいまを比較して対
象化できる」わたしのような世代の感性や知性じゃないかと思って
います。(だれも聴く耳もちませんけどね。笑)」
今はもう、やはり言葉が自分や他者を傷つけるリスクを負ってい
なければならないのだけど、そこから逃げて、多くの人たちが自
己防衛的なことばに安易に走っている。
欧米などキリスト教倫理と格闘している国ならともかく、この国
ではもうかつてのような生きた心の詩は不(可)能でしょう。
















散文(批評随筆小説等) 凄いぞTOP10『透明な残火』atsuchan69 Copyright 室町 礼 2026-02-02 12:44:50
notebook Home