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室町 礼
正直いいますと、
みなさん、頭のいい人ばかりで、頭がいいばかりでなく
社会的にもちゃんとしている方々ばかりでしょう。いや、
そんなことないよと否定する方がいるとしても、わたし
に比べれば多分そうです。
そういうちゃんとした方々の中に混じってわたしの
ようなバカでどうしょうもない社不が一番大きな声を上げ
ていることについて、実は内心、忸怩たるものを感じています。
わたしに比べれば、みなさんは高嶺の花です。
であるのにわたしはずっと皆さん方がうんざりするような
ことを言い募ってきた。ある方はわたしを「罵倒家」とまで
呼んだ。「武道家」ならかっこいいのですがね。「罵倒家」は
ないでしょう。ほんと。傷ついてます。
おそらく罵倒はわたしがいわせているのではなく、生まれや、
生きてきた歴史や環境などのせいで蓄積したインテリへの
不信感や反感がわたしをさしおいて反射的にいわせているみたい
な気がします。たとえば例をあげれば、
そのわたしの中のナニかがいわせているみたいなんですが、中田
満帆さんの詩にはいつも不快感をおぼえてきました。
欧米作家の物真似、おそらく小説を読んで、心酔して、知らずに
その感性や文体を自分のものにしてしまったのか知りませんが、
たとえば米の酔いどれ破滅派作家、ブコウスキーの真似をする。
するとわたしなんか目もあてられないわけです。中田氏の心的な
構造が全部、レントゲン写真みたいに透けて見えてしまう。
社会的にデタラメに生きていても、それを整合化したいがため、
同じようなデタラメをやって生きてきても社会的に認められた作家
ブコウスキーにもたれて甘えているわけです。同じくデタラメに
酒を飲み、詩の仲間内で知り合った女を片っ端から抱き、社会
不適合で、生ポを受けていることを公言している自分をブコウスキー
に重ねることによって肯定しようという心理が透けてみえる。感性
や文体まで模倣するし、その模倣が凄く巧い。ブコウスキーだけじゃ
なくてね。巧いからネットあたりのシロウトの方々は絶賛する。ネット
素人自称詩人たち、あるいはネット自称批評家たちに絶賛されている。
そういう人の詩や散文を批判するのは正直きつい。
妬みだと思われる。そういう眼でみられることがわかっていても、
中田満帆氏の投稿詩にはいつも「いい加減、その甘ったれた姿勢、態度」
なんとかしろよとわたしをさしおいて、わたしのなかのナニカが
いわせてしまう。まるでわたしを見るように不快だからかもしれない。
中田氏にしてみればどれほど、わたしに腹を立てているか想像に
難くない。当然アホのわたしのいうことなど考慮して自分を対象化し
てみつめようとはしない。そりゃまあ、あたりまえだ。自分でいうの
もおかしいけど、わたしのようなアホのいうことなどわたしでも相手に
しないかもしれない。笑
それだけじゃなく"ネット界の批評の大御所"、澤あづさ氏あたりが中田
氏の才能をみとめ、擁護しているからというのもある。澤あづさ氏らCWSの
洞窟に生息している自称おれは結構凄いんだぞ詩人たちも中田氏の詩や
散文を評価している。そういう人たちに向かって、中田氏やゼンメツ氏
のあれは物真似が鼻につくと書いたところ、澤あづさ氏やその他がポスト
モダン理論を持ち出して、"作品は引用の織物だ(フランスの哲学者ロラン
・バルトあたりが1967年の論文「作者の死」で提唱した、テクストは過去
や現代の文化、言説からの無数の引用が織り合わされて構成されるという
概念)"といって、物真似や引用など当たり前の常識であって、このバカ、
今更何をいってるんだというムードが漂った。
わたしは澤あづさらのその発言を聞いて、顎が外れるほど驚いた。
そんなおフランス理論は百も承知なのだけど、ソシュールはその「テクスト」
のなかに詩は含めていない。ロラン・バルトはマラメルなどを論じているけど
「人間が言葉を使う以上、どんな表現も過去の誰かの言葉の再構成(パッチ
ワーク)にならざるを得ない」それは意図的なものであってもいいとはいってない
。バルトのいう「引用の織物」とは、血の滲むような言語との格闘の末に到達する
認識であって、安易なエピゴーネン(模倣者)を全肯定する免罪符ではない。
自分の表現を対象化し、客観化して見てみたとき、そこに物真似的なものを発見
したらわたしなら赤面するな。あるいは感性の模倣が読み取れたらわたしなら
恥ずかしくて絶対に外に出さない。つまり「作者の死」といっても、それは
長い歴史の流れの中で必然的にいやおうなくそうなったもののことをいうので
あって、やっていい、当然だとはいってないはずだ。
澤あづさらが、ポスト構造主義の文学理論を頭から信じて、自分の実感や自前
の文学理論も組み立てず、中田満帆氏やゼンメツ氏の詩をかんたんに肯定して
しまったことに、腰を抜かしてしまった。
とてもやってられないと思った。もし、こんなことがネット上でまかり通っている
とするならば、今後永久にネット投稿板ではまともな、(つまり彼らが看板にしている
独創的で先進的な)文学など生まれることはありえないと思った。
前置きが長くなり、かつ本旨を外れたのでもとに戻すが、
わたしは中田満帆氏本人は嫌いじゃないのだけど、非常にかれの詩に批判的で、本人からも憎まれ
ていた。その中田満帆氏がCWSから花緒氏の鶴の一声の独断で一瞬にして追い出された事件がある。
弁明もなにもさせてもらえなかった。理由は「ビーレビの運営と仲がいい奴がここに
来てなにしている」というものだった。直接的な原因は中田氏がきわめて穏当な感想をしたことにある。
だれかが蝶を捕まえて冷蔵庫で冷凍し固まったそれをガラス屑をつぶすように潰してしま
った表現に対して、子どものころならそういうのもいいけど、大人がそんな感性ではどうも
というコメントをしたのが、ビーレビと仲がいいというありえない妄想を語って、嫌な奴が来たと憎悪する
鼻緒に追い出す口実をつけさせた一瞬だった。
中田氏のXツィッターによると、サイトの閲覧すらできない完全排除だった。
その事件が起きたとき、わたしはCWSを利用しはじめて一週間ほどだったが、その光景をみて
さっさと作品を引き上げ
CWSからおいとました。今後もこういった運営、こういった偉大な批評家、詩人さまたちの
いるところには書き込まないし、お世話になる気もない。人さまが利用されるのは自由だけど、
鼻緒氏や三浦氏の肥大した自尊心のために奉仕する働きアリにはなりたくないのでね。
ところが鼻緒の暴挙に抗議してCWSを出ていったわたしに中田氏から次のようなトンチンカンな
コメントが届いた。「花緒に認められてよかったね」
わたしが出ていったことを知らなかったみたいだったが、嗚呼、人間てのこうやっていつも
すれ違っていくのだなと思った。
追記
あ、もひとつ大事なことをいい忘れていたけど、
ロラン・バルトらのポスト構造主義理論はアルファベット
をつかう西欧の表現には適用されるけど、漢字、ひらがな
を使う日本語にはそのままでは適応されないということだ。
漢字という表意文字を使う日本語はそのままでアニメになっている。笑
こんなものにどうやっておフランスの表現思想が適応できるのだよ、
アホウども。笑 つまり澤あづさらがダメなところは外国の批評理論を
「批判的」に学ばないで教祖さまを崇めるように盲信しているところに
ある。それは連中が悪いのではなく、東大だってそうだ。現役の先端
的な批評家だってそうだから仕方がない。こんなまっとうな真実を語る
からわたしは嫌われる。あひっ。
追・追記
上のわたしの「追記」の内容をGeminiに読み込ませて
批判をさせるとAIなのに「おまえはアホウだ」という返事が
返ってきました。笑 「アホウ」なんてどうして出てくるのか、
びっくりしました。
ここからわたしとAIのバトルが始まりました。アホウと最速知的エン
ジンとの格闘です。
AIに言わせるとわたしの「追記」は根底から間違っているそうです。
曰く
1.バルトはむしろ、西洋の「意味(中身)を重視する構造」に対し、
日本の文化を「中心が空虚で、表面(記号)が戯れる記号の楽園」
として絶賛しました。
「アルファベットにしか適用できない」どころか、バルト自身が
日本語や俳句、パチンコ、天ぷらなどを題材に、自身の記号論を拡張
させています。文字の形態が違うことは、理論の否定ではなく、むしろ
理論の「格好の材料」になっています。
2. 「漢字は表意文字(意味を表す文字)だから西洋の理論は通じない」
という主張は、言語学的に不正確です。
現在の言語学では、漢字は「意味」だけでなく「語」を表す「表語文字」、
あるいは音も表す「形声文字」**として扱われます。
「漢字はそのままアニメ(絵)だ」というのは、文字の起源(象形文字)に
引きずられすぎた極端な解釈です。現代の日本語は、音、訓、文脈が複雑に
絡み合う「記号の体系」であり、バルトが得意とした「記号の解体(デコ
ンストラクション)」の格好の餌食です。
3.発言主は「日本の批評家は盲信している」と批判していますが、自身の
主張もまた「西洋=アルファベット」「日本=漢字=アニメ」という単純な
二項対立に陥っています。
「東大だってそうだ」という一括りにした批判は、具体的な論証を欠いた
感情論(レッテル貼り)です。
文中で「適応(環境に合わせる)」と「適用(ルールを当てはめる)」が混
ざっていますが、理論の話であれば基本的には「適用」を使うのが適切です。
この発言の最大の問題は、「バルトが日本をどう見ていたか(=記号の過剰な
までの表面性を愛していた)」を知らずに、イメージだけで「おフランスの
思想」を排斥している点にあります。
批判対象(澤あづさ氏や批評家たち)が「盲信している」と責める一方で、
自分自身も「日本語は特殊だ」という古風な日本文化特殊論を盲信してしま
っている、という二重の皮肉が生じています。
ちなみに、バルトの理論をアニメやマンガに応用する研究は、記号論の観点か
ら非常に相性が良く、現在では世界中で当たり前に行われています。
おそらく東大あたりの学生も、AIがわたしを批判したようなことを盲信して
そのまま鵜呑みにしているのでしょう。しかし、素直な子どもならわかるはず
ですがロラン・バルトのいってる(「中空の帝国」などの言明)って、
おかしくないですか?
バルトは皇居を中心として「放射環状型」に伸びる東京をみて
日本の文化を「中心が空虚で、表面(記号)が戯れる記号の楽園」として絶賛しまし
たが、批判的にみましょう。
日本の歴史をみればむしろ日本人と日本の民の原型の都市形態は、平城京が典型ですが中国を模倣した
条坊制都城です。江戸城のような中心をもつ「放射環状型」の都市は歴史的な比較から
すれば最近のもので、フランスの凱旋門を中心に放射状に伸びる西欧近代都市の模倣です。
つまりバルトの日本論は「1960年代のフランス人から見たオリエンタリズム(東洋への幻想)」
という側面が強いのです。江戸城(今の皇居)という特定の時代の遺物を、あたかも「日本人の普遍的な精神構造」であるかのように拡大解釈(一般化)してしまった。わたしのようなこういう視点もてる学者や批評家がいまの日本にいますか?笑
言語論もそうです。
AIが決定的に見落としているのは、日本語には音読みと訓読みがあることです。笑
フランス語や英語に音読みや訓読みありますか? 爆笑。 これがバルトの言語論を日本語にあてはめるさいの決定的な問題点なのです。それからわたしがいう「漢字=アニメ」という直感は、バルトの言う「記号の戯れ」よりも、もっと「図像(アイコン)としての直接性」を指しているのです。
こういうこと、文芸批評家でわかっている人いますか?日本人は漢字という「意味ある図形(絵)」に、音を振り当てて読むという特殊な脳の使い方をしており、これはマンガを読む行為そのものです。
こういう日本語や日本人の特殊性を考慮にいれないおフランスの言語論を盲信しているから今の日本人はダメだというのです。結局AIとの格闘はAIの盲点をついたわたしの微弱な勝利に終わりましたがみなさん、もう少し自分の実感や感性を大事にして、つまらねえ外国の硬直した文学理論で詩を語るの
やめましょうよ。笑