河童伝・第三話「名を呼ばれぬ河童」
板谷みきょう

三郎の名が、村の口から消えはじめたのは、そう年月の経たぬ頃でございました。

神として呼べば重すぎる。妖怪として呼べば怖すぎる。

結局、人々は名を避けました。

「……あの水のこと。」

「……あれのおかげで。」

名を呼ばれぬものは、次第に“居ないこと”にされていく。村はそれで、うまく回っているように見えたのでございます。

ところが、秋の終わり。最初の異変は、“音”でした。

夜更け、誰もいないはずの川辺から、ぴちゃり、ぴちゃり、と水を踏む音が聞こえる。見に行っても、波紋だけが残り、姿はない。

翌朝、川沿いの畑に、奇妙な足跡が並びました。

人の足より小さく、獣より丸く、途中でふっと消えている。

「河童だべか。」

そう言いかけて、皆、口をつぐみました。名を出せば、何かが壊れる気がしたからです。

やがて、困ったことが起きます。

川の水位が、少しずつ、少しずつ下がり始めたのでございます。

氾濫するほどではない。しかし、確実に足りない。井戸の水も、前のようには戻らぬ。

村人たちは焦りました。

「また、三郎に何か頼まねぇと……。」

その言葉が出た瞬間、囲炉裏の火が、ふっと小さくなりました。

火が嫌うのは、名を呼ばれぬものの影。

婆さまだけが、静かに言いました。

「違う。あの子は、頼まれるのを、もう待ってねぇ。」

その夜、川に異変が起きます。

水面に、文字が浮かび上がったのです。

……よ ば れ な い

読めぬはずの水が、はっきりと、そう示していた。

村は震えました。怒りではない。責めでもない。ただ、突き放されたような静けさ。

翌日、子どもが一人、川から戻りませんでした。

大騒ぎになり、村中で探しましたが、見つからない。やがて、上流の浅瀬で、無事に発見されます。

濡れてはいたが、傷一つない。ただ、その子は言いました。

「名前を、聞かれた。」

誰に、と問うと、首を振る。

「聞かれたのは、ぼくの名前じゃない。あっちの」

川面に映った影が、口を動かさず、問いかけてきたのだと。

……おまえたちは、まだ、わしを使うのか

村は、ようやく気づきました。

名を呼ばぬということは、忘れることではない。

忘れたまま、助けだけを欲しがることだと。

その夜、村人たちは集まり、初めて声に出して、三郎の名を呼びました。

祈りではなく、願いでもなく、ただの呼びかけとして。

すると、不思議なことに、川はそれ以上、痩せませんでした。

水位は低いまま。しかし、底が見え、流れは澄んだ。

安心できる結果でした。

……けれど。

翌朝、川辺に、もう一つの足跡がありました。

三郎のものではない。

皿の跡もない。

それは、三郎の影を“見ていた側”の足跡でございました。

名を呼ばれぬ河童が現れたとき、
次に名を持たぬものは、何を奪いに来るのか。

村はまだ、それを知らなかったのでございます。


散文(批評随筆小説等) 河童伝・第三話「名を呼ばれぬ河童」 Copyright 板谷みきょう 2026-01-26 13:06:07
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