河童伝・第一話「河童三郎譚」
板谷みきょう

むかし、むかし……と語るには、あまりに生々しい頃の話でございます。

山あいの村に、ぬらくら川という名の川が流れておりました。春になれば雪代が荒れ、夏には深みが増し、秋には底知れぬ色を帯び、冬には凍ることもなく、ただ黙って流れ続ける川でございました。

その川には、河童が棲む、と申します。

もっとも、村人の誰も、はっきりと姿を見た者はおりません。ただ、牛馬の足が引かれた跡、夜更けに聞こえる水音、朝になると並ぶ、三本指の濡れた足跡……そうしたものを総じて、人々は「河童の仕業」と呼んでおりました。

ある年のこと、川が村を試すように牙を剥きました。

大雨でもないのに水が増し、堤が崩れ、田は流され、若い衆が一人、戻らぬままになったのです。葬いの夜、囲炉裏端で誰かが言いました。

「……川が怒ってる。」

それは誰の声だったか、今ではわかりません。ただ、その言葉だけが、妙に村に残りました。

翌朝、川岸に、見慣れぬものが落ちておりました。

割れた皿です。皿の形をしているが、土でも木でもない。ぬめりを帯び、ひびの奥に、薄く水が揺れている。不思議な皿でした。

村の子どもが拾い上げ、ふざけて水を注ぐと、皿はふるりと震え、川のほうへ転がっていったと申します。

その夜、川から声がしました。

人の声のようで、人でない。笑っているようで、泣いているようでもある。

「……皿、返してくれぇ。」

翌日から、村の災いは形を変えました。

水は引いたものの、獲れた魚は腹を上にして浮かび、井戸水は濁り、夜になると川辺に立つ影が増えたのです。

ついに村は、河童と話をつけることになりました。

選ばれたのは、口の利ける若者一人。夜明け前、川へ向かわせると、霧の向こうから、ぬうっと姿を現したのが……河童三郎でございました。

三郎は、人ほどの背丈もなく、獣ほどの荒々しさもなく、ただ、どちらにも属さぬ顔をしておりました。頭の皿はひび割れ、そこから水がこぼれ落ちていた。

「……村が欲張った。」

三郎は、そう言ったと申します。

川の恵みを当たり前と思い、怖れを忘れ、名もないものを名もなく奪った。
それが、皿の割れ目だと。

三郎は言いました。

「川を鎮める代わりに、俺が川を出る。」

驚く村人を前に、三郎は一つ、奇妙な頼みを残します。

「俺を、河童として語るな。」

その翌朝、川は静まり返りました。

三郎の姿は消え、川底にあったはずの深みは埋まり、ぬらくら川は、ただの川になったのでございます。

やがて人々は言いました。

「河童は、神さまになった。」

「三郎は、星になった。」

そう語るほうが、都合が良かったのです。

けれど
川岸には今も、割れた皿の欠片が一枚、土に半分埋まったまま、残っております。

それが何の皿で、誰のもので、何を満たしていたのか。

それを、知ろうとする者は、もう村にはおりませんでした。

この話は、ここまででございます。

ただし
川が静かになった理由を、誰も本当には、確かめていないのでございます。


散文(批評随筆小説等) 河童伝・第一話「河童三郎譚」 Copyright 板谷みきょう 2026-01-25 18:55:01
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