宗教的言説と「媒介」の構造について
atsuchan69

日本社会において、政治と国民のあいだに宗教的価値観や組織が介在しているように見える場面は少なくない。この指摘は、特定の宗教や信者個人を非難するためのものではなく、社会的問題がどのように処理され、どの段階で曖昧化されていくのか、その構造を考えるためのものである。

本来、政治や公共の議論は、制度や権力、責任の所在を明らかにする方向へ向かうべきだ。しかし現実には、ハラスメント、不正、権力の濫用、ガバナンスの欠如といった社会的問題が浮上した際、それらが構造として検討される前に、別の語りへと回収されてしまうことがある。

その語りの多くは、宗教的背景を持つ個人による「諭し」や「助言」という形を取る。「怒りは自分を苦しめる」「相手にも事情がある」「執着を手放したほうがいい」「対立より調和を」。これらの言葉は、一見すると成熟した倫理観や人生観に基づくものに見えるし、実際に個人の内面に向けられる限りにおいては、一定の意味を持つだろう。

しかし、こうした言葉が社会的問題に向けられたとき、別の機能を持ち始める。問題の焦点が、制度や構造、責任の所在から離れ、「問題をどう受け止めるか」「どう心を整えるか」という個人の内面へと移動してしまうのである。

この転換が起きた瞬間、検証されるべきだった組織や権力は視界の外に退き、問いは個人の倫理や態度の問題へとすり替えられる。被害や不正が存在していたとしても、「あなたの感じ方の問題」「あなたの修行の課題」として処理され、社会的な検討の場に残らない。

注目すべきなのは、このような語りを担う人々が、多くの場合、誠実で善良であり、自分が誰かを助けていると信じている点である。彼らは対立を煽ろうとしているわけでも、問題を隠そうとしているわけでもない。むしろ、争いを避け、場を穏やかに保ちたいという動機から行動していることが多い。

だが、その善意が結果的に果たす役割は、問題を和らげることではなく、問題を見えなくすることになる場合がある。社会的な問いが鋭さを失い、輪郭をぼかされ、最終的には「大きな話」「考えても仕方のない話」として遠ざけられていく。

このとき、宗教的言説は一種の緩衝材として機能する。直接的な否定や弾圧を用いず、善意や人格、道徳を通じて、問いの矛先を柔らかく受け止め、別の方向へと導く。その過程で、問題そのものは宙に浮いたまま残される。

さらに、この構造は再生産されやすい。問い続ける人は「攻撃的」「執着している」「空気を読めない」と評価され、距離を置いたり沈黙したりする人は「大人」「分別がある」と見なされる。こうして、社会的問題を語ること自体がコストの高い行為となり、語られないことが美徳として称揚される。

宗教は本来、弱者に寄り添い、権力に対して倫理的な歯止めをかける役割を期待されてきた存在である。しかし、政治や権力と近接したとき、宗教的価値観が秩序維持や調和の名のもとに用いられ、問題を可視化する力を失ってしまう危険がある。

繰り返すが、これは信仰や個々の信者を否定する話ではない。問題は、社会的課題が宗教的・道徳的言説によって個人の内面に押し戻され、構造として検証されなくなることにある。その過程で、善意ある個人が、結果的に問いを中和する役割を担ってしまう現実だ。

私たちが向き合うべきなのは、「誰が正しい人か」「誰が善良か」という問いではない。「どのような語りが、社会的問題を社会の外へ追いやっているのか」という問いである。諭しや美談によって安心する前に、問いそのものが失われていないかを確認する必要がある。

社会が健全であるためには、問いを問いのまま留めておく勇気が必要だ。調和や善意が、問題を覆い隠す道具になっていないかを問い続けること。それは対立を煽る行為ではなく、社会の思考停止を防ぐための最低限の姿勢なのではないだろうか。


散文(批評随筆小説等) 宗教的言説と「媒介」の構造について Copyright atsuchan69 2026-01-25 09:56:31
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