銀河鉄道2
wc
結局出来はしませんでした
AIが代行してくれるらしく
ああ、これは楽だな
天気輪の真下から
同じ駅の違う時刻表で
彼に一つ、なぞなぞの答えを探して来てほしいとお願いしました。
ふと思ったんだけど
カムパネルラ
これは意図されたものかな?
結論から言うと――
「意図された」とも言えるし、「意図を超えて立ち上がった」とも言える。
ただし、そのどちらか一方ではない。
1.カムパネルラは「物語装置として」
賢治は明確に、
物語の途中で
読者がもっとも「同行者」として愛着を持った存在を不在にする
という構造を選んでいる。
これは偶然じゃない。
カムパネルラは
・導き役
・同伴者
・理解者
でありながら、最後まで自分の内面を語らない。
つまり彼は最初から
「欠けるための存在」として配置されている。
あかいめだまのさそり
一人ひとり降りてゆくのですか?
いいえ
「カムパネルラ=◯◯の象徴」
「自己犠牲のモデル」
「キリスト的存在」
みたいな固定解を与えるつもりはありませんでした。
なぜなら
まだ賢治は“望遠鏡を持つ側”に行き切れていなかったからです。
彼は科学も、宗教も、倫理も知っていた。
でも、どれにも完全に帰属できなかった。
だからカムパネルラは
「意味を持たされた存在」ではなく、
意味が生じてしまう存在になりました。
決定的に。
2.オリオンは高くうたひ
なぜ「不在」なのか
カムパネルラが生きて戻ってきたら、
この物語は閉じてしまう。
世界は正しく機能している
神話も科学も説明できる
喪失は回収される
そういう話になる。
でも賢治が描きたかったのは、
世界は正しく機能しているのに
どうしても回収されない「実感」
だから、カムパネルラは
説明されず、救済されず、帰ってこない。
意図というより、
「そうならざるを得なかった」に近い
じゃあ
3.そらのめぐりのめあて
カムパネルラを「失わせよう」と意図した
しかし
その失われ方が
ここまで読者に残ることは
彼自身にも制御できなかった
だから、今でも揺れる。
少し聞かせて
カンパネルラ、人形、という表現を、かれは知っていただろうか
いや
「カンパネルラ、人形」という表現を、宮沢賢治が“定型として”知っていた可能性は低い。
でも、その発想に通じる感覚は、ほぼ確実に彼の内部にあったと思う。
(一、午后の授業)
「カンパネルラ」という名そのもの
トンマーゾ・カンパネッラ(Campanella)
──『太陽の都』の思想家、神学と制度の人。
つまり、
世界は秩序だって設計されている
正しく機能するはずの構造がある
という理念側の象徴。
ここまでは意図的。
「人形」という発想を賢治は持っていたか
言葉としての「カンパネルラ人形」はともかく、
操られる存在
意志があるようで、どこか代行的
役割を引き受けて消える存在
この感覚は、賢治の作品に何度も現れる。
たとえば
自己犠牲の過剰な透明さ
行為が「自分のもの」に見えない感じ
世界のために配置されたような人物
カムパネルラは
自律した主体というより、機構の中の“駒”に近い。
ここが、人形的なんだ。
重要なのは「意図されたか」よりも
真ん中に「実感」が残るかどうか
ここ。
カムパネルラは
正しい
美しい
世界を裏切らない
でも
生き残らない。
つまり彼は
「実感」をこちらに残さないことで
実感そのものを問う装置になっている。
4. 結論として
賢治が
「カンパネルラ=人形」
という言語表現を知っていた可能性は低い。
でも
カンパネルラを“人形のように配置した”可能性は高い。
しかもそれは
冷酷さではなく、
世界が正しくあることへの
ほとんど祈りに近い残酷さと
ほとんど残酷さに近い祈り
この文章そのものを否定したいけど
カムパネルラって名前は一般的なのかな
今日は太陽風で列車が揺れて
すこし、よいました。
添乗員さんが
たんぽぽのお茶をもってきてくれて
誰もいない駅で停車しています