Notes on The Wasteless Land. Ⅳ and Ⅴ
田中宏輔2
IV. It was I who knew you in the wilderness.
第Ⅳ章のタイトルは、HOSEA 13.5 "It was I who knew you in the wilderness,/in the land of drought;"(ホセア書一三・五、「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。」)より。
第一連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一三二三行、「なんだ、これが尨犬の正体か。」そうだったのである。イメージ・シンボル事典のMephistopheles メフィストフェレスの項に、「独立と真の自己を獲得するため、全なるもの the All から離脱した魂の否定的な側面を表す。」とある。
V. Behold the man!
第Ⅴ章のタイトルは、JOHN 19.5 ""Behold the man!;""(ヨハネによる福音書一九・五、「「見よ、この人だ」」)より。
第一連・第四行 「ことば、ことば、ことば。」(シェイクスピア『ハムレット』第二幕・第二場、大山俊一訳)より。
第一連・第一二―一三行 「poet(詩人)という言葉は、もとをたどれば小石の上を流れる水の音を表すアラム語に行きつく。」(ダイアン・アッカーマン『「感覚」の博物誌』第4章、岩崎 徹訳)より。
第一連・第一五行 「人生を愛してこそ詩人だ。」(オネッティ『古井戸』杉山 晃訳)より。
第一連・第一六―一七行 ジイドは、『地の糧』第六の書で、「わたしは唇が渇きをいやした泉を知っているのだ。」と述べているが、第一の書・一には、「しかし泉というものは、むしろ、われわれの欲望がわき出させる場所にあるのだろう。なぜならば、土地というものは、われわれが近寄りながら形づくってゆく以外には、存在はしないし、まわりの風景もわれわれの歩むにしたがって、少しずつ形が整ってゆくからだ。」と書いている。
第一連・第一八行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三三八―三三九行、「およそ否定を本領とする霊どもの中で、/いちばん荷(に)厄介(やつかい)にならないのは悪戯者(いたずらもの)なのだ。」、天上の序曲・第三二〇行、「わたしのいちばん好きなのは、むっちりした生きのいい頬(ほ)っぺたなんで。」より。
第一連・第一九―二一行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第三二四―三二六行、「あれの魂をそのいのちの本源からひきはなし、/もしお前につかまるものなら、/あれを誘惑してお前の道へ連れこむがよい。」より。
第一連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一八三四―一一八三九行、「いい年をして、まんまと騙(だま)されやがった。/自(じ)業(ごう)自(じ)得(とく)というものだが、はてさて景気が悪い。/人に顔向けもならん大失敗だて。/骨折損のくたびれ儲(もう)けとは、いい面(つら)の皮(かわ)だ。/甲(こう)羅(ら)のはえた悪魔のくせに、/卑しい情欲や愚かな色気に負けたとは。」より。
第一連・第三〇行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四・最終部・晩餐(ばんさん)、「なるほど泉の湧(わ)く音はここにもしている、それはあの知恵のことばと同様に、ゆたかに倦(う)むことなく湧いている。」より。
第一連・第三一行 「御血統の泉が、源が、涸(か)れ果ててしまったのです──流れのもとが止ってしまったのだ。」(シェイクスピア『マクベス』第二幕・第三場、福田恆存訳)より。
第一連・第三二行 ニーチェの『ツァラトゥストラ』第一部・贈り与える徳・2、「新しい深い水のとどろき、新しい泉の声なのだ。」より。
第一連・第三四行 ゲーテの『のファウスト』第一部・ワルプルギスの夜・第三九三八行、「この岩の古い肋(あばら)骨(ぼね)につかまっていてください。」より。
第二連・第三行 「自分ならぬ別の女を見ているような気がした。」(ケッセル『昼顔』四)より。
第二連・四行 マルガレーテは、ゲーテの『ファウスト』第一部のヒロインの名前である。第二部・第五幕の最後の場面にも登場する。
第二連・第六―一〇行 グレートヘンは、岩波文庫の『ファウスト』第一部の巻末にある第二八一三行の註にあるように、マルガレーテの愛称である。以下、『ファウスト』第一部・庭園・第三一七七行、「可愛いひと。」、第一部・街路・第二六一三行、「あの唇の赤さ、頬の輝き。」、第一部・庭園・三一三六行、「あなたは確かに最も浄(きよ)らかな幸福を味わわれたんです。」、第一部・街路・第二六一一―二六一二行、「躾(しつ)けがよく、慎(つつ)ましやかで、/しかもいくらかつん(、、)としたところもある。」、第一部・庭園・第三一〇二―三一〇三行、「ああ、単純や無邪気というものは、自分自身をも、/自分の神聖な値(ね)打(うち)をも一向知らずにいるのだからなあ。」より。
第三連・第二―七行 デイヴィッド・ボーンは、ヘミングウェイの『エデンの園』(沼澤洽治訳)の主人公の名前。キャスリン・ボーンは、その妻。以下、『エデンの園』第一部・1、「むらなく焼けているのは、遠い浜まで出かけ、二人とも水着を脱ぎ棄てて泳ぐおかげである。」、第三部・9、「スカンジナヴィア人なみのブロンド」、「白いブロンド」、第一部・1、「両横はカットしたので、平たくついた耳がくっきりと出、黄茶色の生え際が頭にすれすれに刈り込まれた滑らかな線となって後ろに流れる。」、第三部・9、「そっくり同じにして」、第一部・1、「夫婦と名乗らずにいると、いつも兄妹に見間違えられた。」、「二人が結婚してから三週間めである。」より。なお、『エデンの園』からの引用はすべて沼澤洽治訳であるので、以下、『エデンの園』の翻訳者の名前は省略した。
イメージ・シンボル事典を見ると、「対のもの、双子」は、「相反する2つのものを表す。たとえば、生と死、日の出と日没、善と悪、牧羊者と狩猟者、平坦な谷と切り立った山。そしてこの相反するものが結局は、総合し補足しあう働きをする。」とあり、「2」は、「たとえば、積極性と消極性、生と死、男と女、といった両極端の、相違する、二元的な、相反するもの(の結合)を表す。」とある。本作において、対になった二つのものが多く現われるのも、また、さまざまなものが二度現われるのも、偶然ではない。それが、本作のもっとも重要なモチーフを暗示させるからである。
第三連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「ね、キスして」と言った。」より。
第三連・第一二行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「お揃いで見せびらかすの嫌?」より。
第三連・第一三行 ヘミングウェイの『エデンの園』第三部・10、「「いいとも、悪魔。僕が嫌なわけあるまい?」」より。
第四連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第四幕・第一〇一九三行、「何を人間が渇望(かつぼう)しているか、君なんかにわかるかね。」より。
第四連・第二行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二八一―二八二行、「この、地上の小神様はいつも同じ工合にできていて、/天地開闢の日と同じく変ちきりんな存在です。」より。
第四連・第三行 創世記一八・一四行、「主に不可能なことがあろうか。」より。
第四連・第四行 ゲーテの『ファウスト』天上の序曲・第二九〇行、「脚のながいきりぎりす(、、、、、)」より。
第四連・第六―八行 ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第五六六―五六九行、「あんな古文献などというものが、一口飲みさえすれば/永久に渇(かわ)きを止めてくれる霊泉ででもあるのかね。/爽(さわや)かな生気は、それが君自身の、/魂の中から湧(わ)き出すのでなければ得られはしない。」より。
第四連・第九行 「名前があると、彼女のことが考えやすい。」(ロバート・B・パーカー『ユダの山羊』12、菊池 光訳)ので。ちなみに、ゲーテの『ファウスト』第一部・魔女の厨・第二五六五―二五六六行と、第一部・書斎・第一九九七―一九九九行に、「通例人間というものは、なんでも言葉さえきけば、/そこに何か考えるべき内容があるかのように思うんですね。」、「言葉だけで、立派に議論もできる、/言葉だけで、体系をつくりあげることもできる、/言葉だけで、立派に信仰を示すことができる、」とある。まことに考えさせられる言葉である。また、シェイクスピアの『夏の夜の夢』第五幕・第一場に、「詩人の眼は、恍惚たる霊感のうちに見開き、/天より地を眺め、地より天を望み」(土居光知訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)、「そして想像力がいまだ人に知られざるものを/思い描くままに、詩人のペンはそれらのものに/たしかな形を与え」(小田島雄志訳)、「現実には在りもせぬ幻に、おのおのの場と名を授けるのだ。」(福田恆存訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という、よく知られた言葉もある。このよく知られた言葉を、三人の翻訳者によるものを切り貼りして引用したのは、どの翻訳者のものにも一長一短があって、一人の訳者によるものだと、かならずどこか欠けてしまうところがあると筆者には思われたからである。どの訳がいちばんよいのか、散々、悩んだのであるが、悩んでいるうちに、ふと、こんなことを考えた。選べるから、選択しようとするのである、と。選べない状態では、選択しようがないからである。また、比べることができるから、不満も出るのだ、と。そういえば、ひとむかしも、ふたむかしもまえのことなのだが、田舎に住むゲイ・カップルの交際は長つづきすると言われていた。都会のように、つぎつぎと相手を見つけることができないからだというのだ。簡単に違った相手を見つけられると思うと、いまいる相手にすぐに不満もつのるものなのだろう。たしかに、これを捨てても、あれがある、という選べる状態であったら、いまあるものを簡単に捨ててしまって、ほかのものに乗り換えることに、それほど躊躇はしないものだろう。簡単に捨ててしまうのだ。そういえば、『源氏物語』には、つぎのような言葉があった。「ぜんぜん人を捨ててしまうようなことを、われわれの階級の者はしないものなのだ。」(紫 式部『源氏物語』真木柱、与謝野晶子訳)、「今日になっては完全なものは求めても得がたい、足らぬところを心で補って平凡なものにも満足すべきであるという教訓を、多くの経験から得てしまった自分である」(紫 式部『源氏物語』若菜(上)、与謝野晶子訳)。筆者も、はやくそういった境地に至りたいものである。もうとっくに、そういった境地に達していなければならない年齢になっていると思われるからである。
第五連・第三―四行 ゲーテの『愛するベリンデへ』高橋健二訳、「その時もう私はお前のいとしい姿を/この胸の奥ふかく刻んだのだった。」、ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六二九行、「可愛い花は」より。平凡社の世界大百科事典に、マーガレット Margaret (Marguerite)の「語源はギリシア語のマルガリテス margarites ならびにラテン語のマルガリータ margarita で<真珠>の意味である。花の名前としては国によりさす植物がちがい、英語ではモクシュンギク Chrysanthemum frutescena、ドイツ語ではフランスギク、フランス語ではヒナギクをいう。また各国語とも他のキク科植物を含む総称ともされている。」とある。「いずれにしても花びらは白かうす黄色で花の心は金色である。」と、研究社の『英語歳時記/春』にある。花言葉を、柏書房の『図説。花と樹の大事典』で調べると、マーガレットは「誠実」と「正確」、ヒナギクは「無邪気」と「平和」であった。カレッジクラウン英和辞典で、マーガレットの語源である真珠の項を見ると、「精粋、典型:a pearl of woman──女性の中の花」という、語意と成句が載っている。シェイクスピアの『オセロウ』の第五幕・第二場にある、劇のクライマックスで、オセロウは、愛する妻を真珠にたとえて、よく知られている、つぎのようなセリフを口にする。「どうか、いささかもおかばい頂くこともなく、さりとて誣(し)いられることもなく、/ありのままにわたしのことをお伝え下さい。それから、お話し下さい、/懸命に愛するすべは知らなかったが、心の底から愛した男、/嫉妬しやすくはなかったのだが、はかられて/心極度に乱れ、愚かしいインディアンのように/その種族のすべてにもかえられぬ、貴い真珠の玉を/われとわが手から投げうってしまいました、と。」(菅 泰男訳)。シェイクスピアの『オセロウ』のヒロイン、デズデモウナと、ゲーテの『ファウスト』のヒロイン、マルガレーテの二人のヒロインが、真珠という語で結びつくことで、あらためて二つの作品が悲劇であったことに気づかされた。真珠は、美しい女性にたとえられるだけではなく、イメージ・シンボル事典に、「(とくにローマ人に)涙を連想させる。」とあるように、悲しみを象徴するものとしても用いられるのである。
第六連・第一―五行 ゲーテの『ファウスト』第一部・市門の前・第一一一二―一一一七行、「おれの胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、/それが互に離れたがっている。/一方のやつは逞(たくま)しい愛慾に燃え、/絡(から)みつく官能をもって現世に執着する。/他のものは無理にも塵(ちり)の世を離れて、崇高な先人の霊界へ昇ってゆく。」より。
ノエル・コブは、『エロスの炎と誘惑のアルケミー』に、古代ギリシアのパパイラスの、つぎのような言葉を引いている。エロスとは「暗く神秘的で、思慮分別のある要領の良い考えは隠れその代わりに暗く不吉な情熱を吹き込む」「どの魂の潜みにも隠れ住んでいる」(中島達弘訳、ユリイカ一九九八年十二月号)ものである、と。ノエル・コブの引用自体が孫引きであるので、筆者のものは曾孫引きということになる。
パスカルの『パンセ』第六章(前田陽一訳)にある、断章四一二、断章三七七、断章四一七に、「理性と情念とのあいだの人間の内戦。/もし人間に、情念なしで、理性だけあったら。/もし人間に、理性なしで、情念だけあったら。/ところが、両方ともあるので、一方と戦わないかぎり、他方と平和を得ることがないので、戦いなしにはいられないのである。こうして人間は、常に分裂し、自分自身に反対している。」、「われわれは、嘘(うそ)、二心、矛盾だらけである。」、「人間のこの二重性はあまりに明白なので、われわれには二つの魂があると考えた人たちがあるほどである。」とある。なお、『パンセ』からの引用はすべて前田陽一訳であるので、以下、『パンセ』の翻訳者の名前は省略した。
ボードレールは、『赤裸の心』(阿部良雄訳)の一一と二四に、「あらゆる人間のうちに、いかなるときも、二つの請願が同時に存在して、一方は神に向かい、他方は悪魔に向かう。神への祈願、すなわち精神性は、向上しようとする欲求だ。悪魔への祈願、すなわち獣性は、下降することのよろこびだ。」、「快楽を好む心は、われわれを現在に結びつける。魂の救いへの関心は、われわれを未来につなぐ」と述べている。なお、ボードレールの『赤裸の心』からの引用はすべて阿部良雄訳であるので、以下、『赤裸の心』の翻訳者の名前は省略した。
ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第七八四行に、「おれはまた地上のものとなった。」というセリフがある。ボードレールのいう二つの請願というものを、ゲーテの言葉を用いて言い現わすと、「天上的なものに向かうものと、地上的なものに向かうもの」とでもなるであろうか。
プルーストの『失われた時を求めて』(鈴木道彦訳)の第三篇『ゲルマントの方』や、第五篇『囚われの女』にも、「私たちは、二つある地からのどちらかを選んで、それに身を委ねることができる。一方の力が私たち自身の内部から湧き上がり、私たちの深い印象から発散するものなのに対して、他方の力は外部から私たちにやってくる。」とか、「一方には健康と英知、他方には精神的快楽、常にそのどちらかを選ばなければならない。」とかいった文章がある。なお、プルーストの『失われた時を求めて』からの引用はすべて鈴木道彦訳なので、以下、『失われた時を求めて』の翻訳者の名前は省略した。
新潮文庫の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、堀口大學は、ヴェルレーヌが、「一つは善良な、他は悪魔的な、二重人格が平行して(、、、、)自分の内に存在すると確認したらしいのだ。善と悪、異質の二つの鍵盤(けんばん)の上を、次々に、または同時に、往来するように自分が運命づけられていると気づいたというわけだ。」と述べているが、ヴェルレーヌ自身、『呪はれた詩人達』の「ポオヴル・レリアン」の項(鈴木信太郎訳、旧漢字を新漢字に改めて引用。ちなみに、ポオヴル・レリアンとは、ヴェルレーヌ自身の子と)に、「一八八〇年以後、彼の作品は、二種類の明瞭に区別される領域に分けられる。そしてなほ将来の著作の予想は、次の事実を明らかにする。即ち、彼は、同時的ではないとしても(且又、この同時的といふことは、偶然の便宜に起因して、議論からは外れるのだ)、尠くとも並行的に、絶対に異つた観念の作品を発表して、この二種類の傾向といふシステムを続けようと決意した事実である。」と書いており、さらに、「信仰」と「官能」という、この二つの領域への志向が、彼のなかでは思想的に統一されていて、「一つの祈りのみによつても、また一つの感覚的印象のみによつても、多くの著作を易々と作り得るし、その反対に、それぞれによつて同時に唯一つの著作を、同じく自在に、作り得るのである。」とまで言うのであるが、これらの言葉には、ヘラクレイトスの「対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。」(『断片8』内山勝利訳)や、「万物から一が出てくるし、一から万物が出てくる。」(『ヘラクレイトスの言葉』一〇、田中美知太郎訳)といった思想の影響が如実に表れているように思われる。
右の引用に見られるような、いわゆる「反対物の一致」という、ヘラクレイトスの考え方が、後世の詩人や作家たちに与えた影響はまことに甚だしく、その大きさには計り知れないものがある。「俺は 傷であつて また 短刀だ。」(『我とわが身を罰する者』鈴木信太郎訳)と書きつけたボードレールや、「心して言葉をえらべ、/「さだかなる」「さだかならぬ」と/うち交る灰いろの歌/何ものかこれにまさらん。」(『詩法』堀口大學訳)と書きつけたヴェルレーヌについては言うまでもなく、「また見附かつた、/何が、永遠が、/海と溶け合ふ太陽が。」(『地獄の季節』錯乱Ⅱ、小林秀雄訳。海 mer は女性名詞であり、太陽 soleil は男性名詞である。また、海は水を、太陽は火を表わしている。)と書きつけたランボーにおいても、その影響は著しい。また、「異端者の中の異端者だったわたしは、かけ離れた意見や、思想の極端な変化や、考えの相違などに、つねに引きつけられた。」(『地の糧』第一の書・一)というジイドも、『贋金つかい』の第二部・三に、「二つの相容れない要求を頭の中に蔵していて、両者を調和させようとしている」(川口 篤訳)と書きつけている。現実にも、ときには、あるいは、しばしば、この言葉どおりの状況にジイドが直面したであろうことは、想像に難くない。また、プルーストの『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』にも、「その二つは互いに相容れないように見えるかもしれないが、それが合わさるとはなはだ強力になるものであった。」といった言葉があり、トーマス・マンの『魔の山』(佐藤晃一訳)の第六章にも、「対立するものは」「調和しますよ。調和しないのは中途半端な平凡なものにすぎません。」といった言葉がある。プルーストやトーマス・マンが、ボードレールやジイドらとともに、ヘラクレイトスの系譜に列なる者であることは明らかであろう。なお、ジイドの『贋金つかい』からの引用はすべて川口 篤訳であるので、以下、『贋金つかい』の翻訳者の名前は省略した。
堀口大學は、前掲の『ヴェルレーヌ詩集』の解説で、「極端に背(はい)馳(ち)する二つの性格間の激しい争闘とも解されるこの詩人の生涯と作品から、一種の偉大さがにじみ出る」などと述べているが、ヴェルレーヌの偉大さなどいっさい認めず、その矛盾に満ちた人生に、なによりも混沌を見て取る者の方が多いのではなかろうか。ヴェルレーヌの『煩悶』に、「私は悪人も善人も同じやうに見る。」(堀口大學訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)といった詩句があるが、筆者には、これが、「悪人」とか「善人」とかいったものをきちんと弁別した上で書きつけたものであるとは、とうてい思えないのである。そういえば、犯罪の種類も程度も異なるが、ヴェルレーヌと同様に刑務所に収監されたことのあるヴィヨンもまた、『ヴィヨンがこころとからだの問答歌』に、「美と醜も一つに見えて、見分けがつかぬ。」(佐藤輝夫訳)といった詩句を書きつけていた。ちなみに、これらの詩句と類似したものに、ヘラクレイトスの「上がり道と下り道は同じ一つのものである。」(『断片60』内山勝利訳)や、ゲーテの「では降りてゆきなさい。昇ってゆきなさい、といってもいい。/おなじことなんです。」(『ファウスト』第二部・第一幕・第六二七五―六二七六行)や、シェイクスピアの「きれいは穢(きたな)い、穢いはきれい。」(『マクベス』第一幕・第一場、福田恒存訳)や、ランボーの「ここには誰もいない、しかも誰かがいるのだ、」、「俺は隠されている、しかも隠されていない。」(『地獄の季節』地獄の夜、小林秀雄訳)や、ヴァレリーの「異なるものはすべて同一なり」、「同一なるものはすべて異なる」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)といったものがあるが、この類のものは、例を挙げると、枚挙に遑(いとま)がない。ヴェルレーヌのことを考えると、筆者には、サバトの『英雄たちと墓』第Ⅰ部・13にある、「彼の心は一つの混沌だった。」といった言葉が真っ先に思い浮かんでしまうのだが。
しかし、ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第二部で語った、「われわれが矛盾してゐるときほど自己に真実であることは断じてない」(西村孝次訳、旧漢字を新漢字に改めて引用)というこの言葉に結びつけて、ヴェルレーヌがいかに「自己に真実であ」ったかということを思い起こすと、たしかにその意味では、堀口大学が述べていたように、「この詩人の障害と作品から、一種の偉大さがにじみ出」ていることを全面的に否定することはできないように思われるのだが、それでもやはり、その生涯の傍若無人ぶりといったものをつぶさに振り返ってみれば、あらためて、先の堀口大學の言説を否定したい、という気持ちにも駆られるのである。なお、ワイルドの作品からの引用はすべて西村孝次訳であるので、以下、ワイルドの作品の翻訳者の名前は省略した。また、それらの引用はみな、旧漢字部分を新漢字に改めた。
「私たち哀れな人間は/善いことも悪いこともできる。/動物であると同時に神々なのだ!」、この詩句が、だれのものであるか、ご存じであろうか。ヴェルレーヌと同じように、一生のあいだ、自己の魂の二極性に苦しめられたヘッセのもの(『平和に向って』高橋健二訳)である。ヴェルレーヌとヘッセとでは、ずいぶんと生きざまが違うように見えるが、魂の二極性に苦しめられたという点では、共通しているのである。ヘッセが、『荒野の狼』(手塚富雄訳)で、主人公のハリー・ハラーについて、「感情において、あるときは狼として、あるときは人間として生活していた」というとき、それがハリーひとりのみならず、自己も含めて、魂の二極性に苦しんだあらゆる人間について語っていることになるのである。じっさい、ヘッセは、『荒野の狼』に、つぎのように書いている。「ハリーのような人間はかなりたくさんある。多くの芸術家は特にそうである。この種類の人間は二つの魂、二つの性質をかねそなえている。彼らのうちには神的なものと悪魔的なもの、父性的な血と母性的な血、幸福を受け入れる能力と悩みを受け入れる能力が対峙したり、ごっちゃになったりして存在している。」と。そして、「なぜ彼が彼の笑止な二元性のためにそんなにひどく苦しんでいるか」というと、「ファウストと同様、二つの魂は一つの胸にはすでに過重のもので、胸はそのために破裂するに違いないと信じている」からであるという。「しかし実は二つの魂ではあまりに軽すぎるのである。」といい、「人間は数百枚の皮からできている玉葱(たまねぎ)であり、多くの糸から織りなされた織り物である。」というのである。つまり、「ハリーが二つの魂や、二つの人格から成り立っていると思うのは彼の空想にすぎない、人間はだれしも十、百、もしくは千の魂から成り立っている」のだというのである。
プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「私は一人のアルベヌチーヌのなかに多くのアルベヌチーヌを知っていたから、今も私のかたわらにまだまだ多くの彼女が横たわっているのを見る思いであった。」、「彼女はしばしば私の思いもかけぬ新たな女を創(つく)りだす。たった一人の娘でなく、無数の娘たちを私は所有しているような気がする。」とあるが、たしかに、このような感覚は、ひとが恋愛相手に対して持つ、ある種の戸惑いや躊躇といったものがなぜ生じるのか、と考えれば、不思議でもなんでもない、ごくありふれたふつうの感覚として、たちまち了解されるものであろう。
ワイルドが、『芸術家としての批評家』の第一部で、「もっとも完璧な芸術とは、人間をその多様性において剰すところなく映し出すところの芸術だ」と述べているが、そういった芸術を創り出すために、これまで芸術家はさまざまな方法を試みてきた。たとえば、ロートレアモンは、フェルボックホーフェンに宛てて送った一八六九年十月二十三日付の手紙に、「ぼくは悪を歌った、ミッキエヴィッチやバイロンやミルトンやスーゼーやミュッセやボードレールなどと同じように。もちろん、ぼくはその調子を些(いささ)か誇張したが、それも、ひたすら読者をいためつけ、その薬として善を熱望させるためにのみ絶望をうたう、このすばらしい文学の方向のなかで新しいものを作りだすためなのだ。」(栗田 勇訳)と書いているが、たしかに、『マルドロールの歌』は、二元的なもののうち、一方のみを強調して描くことによって、他の方をも暗示させるという手法の、そのもっとも成功した例であろう。まさに、「一方を思考する者は、やがて他方を思考する。」(『邪念その他』A、佐々木 明訳)という、ヴァレリーの言葉どおりに。また、「常に悪を欲して、/しかも常に善を成す」(ゲーテ『ファウスト』第一部・書斎・第一三三六―一三三七行)というメフィストーフェレスのセリフに呼応するように、両極の一方での体験がもう一方の境地を導く、その一部始終を描いてみせる、という手法もある。もちろん、ゲーテの『ファウスト』は、その手法のもっとも成功した例であろう。『ファウスト』は、そして、『マルドロールの歌』もまた、結局のところは、同じく、魂のさまざまな要素を、相対立する二つの要素に集約させて二元的に扱い、その両極の狭間で葛藤する人間の姿をドラマチックに描くことによって、人間の魂の多様性というものを表わそうとしたものであって、その目的は見事に達成されており、ただ単に、人間の魂を二元的なものとして扱ってはいないのである。なんとなれば、「われわれの知性は、どんあにすぐれたものであっても、心を形作る要素を残らず認めることはできないもので、そうした要素はたいていの場合すぐ蒸発する状態にあり、何かのことでそれがほかのものから切り離されて固定させられるようなことが起こるまでは、気づかれずに過ぎてしまう」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇・『消え去ったアルベヌチーヌ』)ものだからである。それゆえ、人間の魂といったものを、そのすべての側面を、具体的に列挙して表わすことなどはけっしてできないことなのである。これは、「同一の表現が多様な意味を含み得る」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)といったことを考慮しない場合であっても、である。ヴァレリーが、「ゲーテは、数々の対比の完全な一体系、あらゆる一流の精神を他と区別する希有にして豊饒な結合を、われわれに示しております。」(『ゲーテ』佐藤正彰訳)と述べているように、また、ゲーテの『ファウスト』第一部・夜・第四四七―四四八行にある、「まあどうだ、すべての物が集まって渾一体(こんいつたい)を織り成し、/一物が他の物のなかで作用をしたり活力を得たりしている。」という言葉からもわかるように、「二」すなわち「多数」と、あるいは、「二」すなわち「無数」と、捉えるできものなのである。ヘッセ自身もそう捉えていたからこそ、自分の作品のなかで、あれほど執拗に、「二極性」といったものにこだわりつづけていたのであろう。「二」すなわち「多数」、「二」すなわち「無数」といえば、筆者には、「アダムとイヴ」と「彼らの子孫たち」のことが思い起こされる。二人の人間からはじまった、数えきれないほどの数の人間たち、彼らの子孫たちのことが。
ランボーは、ポオル・ドゥムニーに宛てて送った一八七一年五月十五日付の手紙と、ジョルジュ・イザンバアルに宛てて送った一八七一年五月十三日付の手紙に、それぞれ、「「詩人」はあらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じてヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって未知のものに到達することが必要なのです。」(平井啓之訳)と書いている。しかし、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放すること」とかいった件(くだり)には、その言葉のままでは容易に把握し難いところがある。よりわかりやすい表現に置き換えてみよう。
ランボーは、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。──どこの家庭も、わが家のようにわかっている。」(『地獄の季節』下賤の血に、秋山晴夫訳)という詩句を書いているが、ボードレールの『一八五九年のサロン』5にも、「真の批評家の精神は、真の詩人の精神と同じく、あらゆる美に対して開かれているに相違ない。彼は勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる。」といった文章がある。ランボーの詩句とボードレールの文章とのあいだに、意味内容においてそう大きな隔たりがあるようには思われない。時系列的に、ボードレールの文章とランボーの詩句とのあいだには、と書き直してもよい。ところで、ランボーはまた、先の二つの手紙のなかで、「「われ」とは一個の他者であります。」と語っているのだが、このよく知られた言葉も、ボードレールの「詩人は、思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る、比類なき特権を享受する。彼は欲する時に、肉体を求めてさ迷う魂の如く、人の何人たるを問わず、その人格に潜入する。ただ彼一人のために、人はみな空席に外ならない。」(『群衆』三好達治訳)という言葉と、意味概念的には、それほど距離のあるものには思われない。これらはまた、シェイクスピアのように、きわめてすぐれた詩人に当てはめて考えると、なるほど、と首肯される言葉であろう。ジイドの『贋金つかい』第一部・十二に、「他人の気持を自分の気持として感じる妙な自己喪失の能力を私は持っているので、私には、いやでも、オリヴィエの気持、彼が抱いているに違いないと思われる気持を、感じ取ることができた。」とあるが、この「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものも、また、ランボーの「「われ」とは一個の他者であります。」という言葉や、それに照応するボードレールの言葉と、意味のうえにおいては、それほど大きな違いがあるようには思われない。
あるインタヴューのなかで、エンツェンスベルガーが、「ぼくの過去に対する参照のシステムは、過去に対する理解の射程は、二百年前にまでとどきます。らんぼうな言い方をすれば、フランス革命です。その時代のたとえばディドロとなら、ぼくは膚と膚を接して漢字あうことができる。彼の存在は、ぼくにとってはほとんど生理的な真近かさだ。でも、中世となると、ぼくには分りません。ぼくの歴史的〝神経〟は、そこまではおよばない。中世の農民がどうだったか、その神経をぼくは持ちあわせない。でもフランス革命期にインテリがどうだったかなら、それをぼくは自分のからだの中で感じることができる。たくさん本を読んでいて、当時の人びとがどんなふうだったか、家や家具がどうだったか、恋愛関係がどうだったか、どの恋人から逃げだしてどの恋人のところへ行ったか、それがまたどのようにしてダメになったか、そのようなスキャンダルだって、まるで身内の者のことのように分る。」(『現代詩の彼方へ6』エンツェンスベルガー宅で2、飯吉光夫訳、ユリイカ一九七六年七月号)と答えているが、このなかで、とりわけ興味深いのは、「たくさん本を読んで」というところである。ジョルジュ・プーレが、『批評意識』(佐々木涼子訳、ユリイカ一九七六年七月号)のなかで、プルーストによってラモン・フェルナンデスに宛てて送られた一九一九年の手紙から、「ある本を読み終えたばかりの時は」、「われわれの内なる声は、長いあいだじゅう、バルザックの、フローベルのリズムに従うように訓練されてしまっていて、彼ら作家と同じように話したがる。」といった一節を引用した後、それにつづけて、「自分の内で他人の思考のリズムを延長しようとするこの意志が、批評的な思考の最初の行為である。ひとつの思考についての思考、それはまず、他者の思考が形成され、はたらき、表現されていく運動に、いわば肉体的になりきることで、自分のものではないあり方に順応してみないことには存在しえない。呼んでいる著者のテンポ(、、、)にあわせて自分自身を調節すること、それはその著者に近づくというより以上のこと、それは彼に入りこんでしまうこと、彼の最も奥深く、最も秘めやかな、考え、感じ、生きる方法に密着するということである。」と書いているが、この「自分のものではないあり方に順応」することができるというのも、プルーストが、ジイドのいう「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」といったものを持ち合わせていたからであろう。もちろん、こういった「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力」というものを持ち合わせているのは、なにも、詩人や作家たちばかりとは限らない。だれもが持ち合わせている能力であろう。友だちや恋人とのあいだで、仕草や癖がうつることは、それほどめずらしいことではないし、よく言われることだが、長くいっしょにいる仲の良い夫婦は、表情や顔つきまで似てくるらしいのだが、じっさい、以前に、喫茶店で、ひじょうによく似た兄妹のように見える老夫婦を目にしたことがある。
しかし、なぜ、「自分のものではないあり方に順応」することができるのであろうか。ラモン・フェルナンデスの『感情の保証と新庄の間歇』Ⅱに、「ニューマンは、事物を理解する二通りの方法があると言う。一つは、概念にもとづく推論による抽象的(、、、)理解。他の一つは、想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解である。」(野村圭介訳、ユリイカ一九七六年七月号)とある。カミュは、「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」(『シーシュポスの神話』不条理な論証・不条理な壁、清水 徹訳)といい、ボードレールは、『一八五九年のサロン』3に、「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」、「それはあらゆる創造物を解体し、その解体された素材を、魂の最も深奥な部分からのみ生まれて来る規矩にしたがって寄せ集め、配置することにより、新しい世界を創り出し、新しいものの感覚を生み出す。」と述べているが、こういった「想像力」によって、ランボーやボードレールやジイドらは、「他人の感情を、まるでそれが自分自身の感情ででもあるかのように想像して」(プルースト『失われた時を求めて』第二篇『花咲く乙女たちのかげに』)、「「われ」とは一個の他者であります。」とか、「思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る」とか、「他人の気持を自分の気持ちとして感じる」「自己喪失の能力を私は持っている」とかと書き述べることができたのであろう。まさしく、「想像力」によって、「他人の気持を自分の気持として感じ」、「勝利に輝くカエサルの眩いばかりの偉大さも、神の視線の前に頭をさげる場末の貧しい住人の偉大さも、まったく同じように味わうことができる」のであろう。
しかし、「想像力の与える経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」とはいっても、ほんとうのところ、じっさいには、現実と想像とのあいだに、なんらかの相違があるのではないだろうか。
ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「人間は、自分がそう感じると思うものを感じるのだと気づいてから、私は心理分析というものにまったく興味を失ってしまった。そこから、逆に、人間は現に感じているものを、感じていると思うものだとも考えられる……。このことは、私の恋愛について見れば、よくわかる。ローラを愛することと、ローラを愛していると思うこととの間──さほど彼女を愛していないと思うことと、さほど彼女を愛していないこととの間に、どれほどの相違があろう? 感情の領域では、現実と想像との区別はつかない。」とある。感情の領域では、現実と想像とのあいだに相違はない、というのである。「俺は地獄にいると思っている。だから俺は地獄にいるんだ。」(『地獄の一季節』地獄の夜。道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)という、ランボーの詩句が思い起こされる言葉である。
ランボーが書きつけた、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱を通じて」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいった言葉を、「想像力によって」という言葉に置き換えてみると、それぞれ、「「詩人」は、想像力によって、ヴォワイヤン(、、、、、、)となるのです。」、「想像力によって、未知のものに到達することが必要なのです。」となる。これで、ランボーが書きつけた手紙の言葉がかなり把握しやすいものとなったであろう。
ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「自己について何ごとかを知るためには、他人についてすべてを知らねばならぬ。」という言葉がある。これほどに極端な主張ではないが、ジイドの日記にもこれと似た言葉がある。「己を識ることを学ぶための最善の方法は、他人を理解しようと努めることである。」(『ジイドの日記』第五巻・一九二二年二月十日、新庄嘉章訳、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)というのである。ランボーは、「ひとりの人間には、多数の他人(、、)がその生命(いのち)を負うているように僕には思えた。」(地獄の一季)うわごと(その二)・言葉の錬金術、堀口大學訳)と書いており、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』にも、「ひとりの人間は多くの人物によって形つくられている」といった言葉がある。また、コクトーは、「ぼくたちは半分しか存在していない。」(『ぼく自身あるいは困難な存在』演劇について、秋山和夫訳)と言い、ヴァレリーは、「自分自身になるためには、ひとは他人が必要である。」(『ヴァレリー全集 カイエ篇9』、『人間』岡部正孝訳)と書いており、ボーヴォワールは、「各人がすべての人びとによって作られています。そして各人はすべての人びとを通してはじめて自分を理解するものであり、各人はすべての人びとが彼ら自身について打ちあける事柄を通じて、また彼らによって明らかにされる自分自身を通じて、はじめてその人びとを理解するのです。」(『文学は何ができるか』一九六四年年十二月討論、平井啓之訳)と述べている。T・S・エリオットも、『宗教と文学』という論文のなかで、「私たちはつぎからつぎへと強力な個性に影響されてゆくうちに、一人あるいは少数の特定の個性に支配されないようになります。そこに広い読書の価値があるのです。さまざまのきわめて異なった人生観が私たちの心の中にいっしょに住んでいると、それらは互に影響しあいます。すると私たち自身の個性は自分の権利を主張して、私たち独自の配列に従ってこれらの人生観をそれぞれに位置づけるのです。」(青木雄造訳)と書き述べているのである。もちろん、わたしたちに影響を与えるのは、「書物」を介した体験だけではない。
「民主化直後のモンゴルは、ひどい物不足だった。二年前のモンゴルといまのモンゴルでは比較にならないほど変わっている。まず、モノが多い。店にはいろいろな食料品(お菓子、野菜、魚の缶詰、ジュースなど)や電化製品がいっぱい並び、なんと二十四時間営業のコンビニもある。ドイツのベンツ、BMW、といった高級車やVOLVO、日本製のホンダ、トヨタ、日産の車が、ウランバートルの街を走っている。車全体の数でいえば、二年前の何倍かになっているだろう。街の外観はそう変わらないが、人びとの生活は大きく変化している。モノが増え、いろんな意味で自由になった一方で、以前はほとんどなかった貧富の差が拡大している。/自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」と、相撲取りの旭鷲山が、ベースボール・マガジン社から出ている『自伝 旭鷲山』の第5章のなかに書いている。「自分はどうだろう。やはり同じではない。いや、以前と同じ自分と同じでない自分が同居している。」というところに着目されたい。これは、「本」からのものではない。「読書」からのものではない。いわゆる、「経験、感情、個々の行為の具体的表象にもとづく合意(アサンチマン)による真の(、、)理解」といったものによるものであろう。プルーストの『失われた時を求めて』の第一篇『スワン家の方へ』のなかに、先の旭鷲山の言葉と、よく響き合う文章がある。「自分はもはや今までの自分と同じではなく、また自分一人だけでもない、自分とともに新たな存在がそこにいて、自分にぴったりとはりつき、自分と一体になり、彼はその存在を振り払うこともおそらくできないだろうし、今後はまるで主人や病気に対してそうするように、この存在とよろしく折りあっていかねばならないだろう、と。にもかかわらず、一人の新しい人物がこのように自分につけ加わったことを、ついいましがた感じて以来というもの、彼には人生がこれまで以上に興味深いものに思われ出した。」という箇所である。しかし、「以前と同じ自分」、「以前と」「同じでない自分」とは、いったいなんであろうか。ジイドの『贋金つかい』第一部・八に、「私は、自分でこうだと思っている以外の何者でもない。──しかも、それは絶えず変化する。」といった言葉がある。オーデンの『D・H・ロレンス』にも、「あらゆる瞬間に、彼はそれまで自分に起こったすべてのことを加えて、それによってすべてのことを修正する。」(水之江有一訳)といった言葉があり、ヴァレリーの『カイエB一九一〇』にも、「私には完了された姿として、自分を認識することができない。」(村松 剛訳)といった言葉がある。
ワイルドが、『虚言の衰頽』に、「僕らが見るもの、また僕らのその見方といふのは、僕らに影響を与へたその芸術に依存するのだ。ある物を眺めるといふことは、ある物を見ることとは大違ひなのだよ。ひとは、その物の美を見るまでは何物をも見てはゐないのだ。その美を見たとき、そして、そのときにのみ、物は生れてくるのだ。現在、人々は靄を見るが、それは靄があるからぢやない、詩人や画家たちが、そのやうな効果の神秘な美しさを人々に教へてきたからなのだ。靄なら、何千年来ロンドンにあつたかもしれぬ。あつた、と僕はいふよ。でもね、誰ひとりそれを見なかつたのだ、だから僕らは、それについては何も知らないわけだ。芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」と書いている。指摘されて、はじめてその存在を知ることができる、というのである。ディラン・トマスの『詩について』という詩論のなかにある、「世界は、ひとたびよい詩がそれに加えられるや、けっして同じものではなくなってしまうのです」(松田幸雄訳)といった言葉に通じるものである。そういえば、マイケル・スワンウィックの『大潮の道』11のなかに、指摘されて、はじめてその存在を知ることができる場面がある。夜空を見上げると、輝く星が闇のなかで瞬いている。しかし、相手に闇の方に目を凝らすように言われて、「見えた。二匹の大蛇がからみあっている、一匹は光で、一匹は闇だ。からんだ体がもつれた天球を形作る。頭上で明るい蛇が闇の蛇の尾を口にくわえている。真下では、暗い蛇が明るい蛇の尾を口にくわえている。光を呑みこむ闇を呑みこむ光。パターンが存在するのだ。それは実在し、永遠に続いている。」(小川 隆訳)と、主人公が思い至るのである。パターンを見出す。補助線を自在に引けるような目にとって、高等数学程度の幾何の問題などは、なんでもない。ここで、ランボーの「僕は久しい以前から、可能な一切の風景を掌中に収めていると自負してきた。」(『地獄の一季節』錯乱Ⅱ・言葉の錬金術、秋山晴夫訳)という詩句を、たとえこれが誇張表現であっても、この言葉どおりの心情をもって書きつけられたものであると仮定したうえで検討してみると、彼のこの詩句に、彼の自負を、いかに多くの知識を得てそれを身につけてきたか、自己の体験からいかに多くのことを学び悟ってきたかという、彼の大いなる自負を、窺い知ることができよう。
『ヘラクレイトスの言葉』三五に、「智を愛し求める人は、実に多くのことを探究しなければならない。」(田中美知太郎訳)とある。スティーヴン・スペンダーが、「最も偉大な詩人とは、非常な記憶をもった人のことであり、その記憶が彼らの最も強い経験を越えて自己以外の世界の観察まで達するのである。」(『詩をつくること』記憶、徳永暢三訳)と述べているが、ボードレールも、『一八四六年のサロン』7に、「記憶が芸術の偉大な基準であることを私はすでに指摘した。芸術は美の記憶術である。」(本城 格・山村嘉己訳)と書いている。カミュの「芸術家は思想家とまったく同じように、作品のなかに踏みこんでいって、作品のなかで自己になる。」(『シーシュポスの神話』不条理な創造・哲学と小説、清水 徹訳)といった言葉に即していえば、芸術家の「非常な記憶」「美の記憶」が、「作品のなかで」一つに結び合わせられる、といったところであろうか。ワイルドの『芸術家としての批評家』第二部に、「かれは多くの形式で、また無数の違つた方法で、自己を実現し、どうかして新しい感覚や新鮮な観点を知りたいとおもふ。たえざる変化を通じて、そしてたえざる変化を通じてのみ、かれは己れの真の統一を発見する。」といった、ランボーの手紙の言葉を彷彿させるような一節があるが、 Mestmacher の「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」(旧漢字部分を新漢字に改めて引用)という成句が、『ギリシア・ラテン引用語辭典』にも収載されており、パスカルも、『パンセ』の第六章に、「われわれの本性は絶えまのない変化でしかないことを私は知った。そして、それ以来私は変わらなかった。」(断章三七五)と述べており、ジイドもまた、『贋金つかい』の第三部・十二に、「個人は優れた資質に恵まれ、その可能性が豊かであればあるほど、自在に変身するものであり、自分の過去が未来を決定することを好まないものである。」と書いている。ボルヘスやサルトルは、さらに、「過去を作り変えることはできないが、過去のイメージを変えることはできる」(『エル・アレフ』もうひとつの死、篠田一士訳)、「私は自分の現在をもって、追憶を作りあげる。」(『嘔吐』白井浩司訳)とまで書いている。「現在」が、「過去のイメージを変え」、「追憶を作りあげる」というのである。モーリヤックの『テレーズ・デスケイルゥ』七に、「私たちは、自分で自分を創造する範囲内でしか存在しない」(杉 捷夫訳)という言葉があるが、「自分を創造する範囲」を可能な限り拡大する、といったイメージで、あのランボーの手紙のなかにある、「あらゆる感覚の(、、、、、、、)、長期にわたる、大がかりな、そして理由のある錯乱」とか、「凡ゆる感官を放埓奔放に解放することによって」とかいう言葉を捉えると、難解なところなど、ほとんどなくなってしまうのではなかろうか。
ところで一方、ウィトゲンシュタインが、『論理哲学論』の5・63で述べている、「私とは、私の世界のことである。」(山本一郎訳)や、彼の一九一五年五月二十三日の日記のなかにある、「私の言語の限界(、、、、、、、)は、私の世界の限界を意味する。」(飯田 隆『現代思想の冒険者たち07・ウィトゲンシュタイン』)といった考えを通して、ジイドが『贋金つかい』の第三部・七に書いた、「最も優れた知性というのは、自己の限界に最も悩む知性のことじゃないのかな」という言葉にあたると、ランボーがなぜ詩を放棄したのか、その理由の一端を推測することができる。ヴァレリーが、ジャン=マリ・カレに宛てて送った一九四三年二月二十三日付の手紙のなかで、ランボーについて、「《諧調的支離滅裂》の力を発明あるいは発見した」といい、「言語の機能をみずから意志的に刺戟して、その刺戟のこうした極限的な激発点へと辿りついてしまったとき、かれとしては、ただ、かれのなしたことをすることしか──つまり逃亡することしかできませんでした。」(菅野昭正・清水 徹訳)と述べている。取り立ててこのヴァレリーの見解に異を唱えるつもりはない。しかし、ランボーが詩を放棄した理由は、これだけではないように筆者には思われるのである。管見ではあろうが、つぎに、筆者が推測するところのものを述べて見よう。
ジイドの『贋金つかい』第二部・一に、「自分が別人になったような気がする。」とあるが、もし、ほんとうに、「感情の領域では、現実と想像との区別はつかない」のなら、「最高度」にまで「想像力」を働かせると、「自分が別人になったような気がする。」ではなく、「自分は別人になった。」とまで確信するまでに至るはずである。おそらく、これが、「「われ」とは一個の他者であります。」といった言葉を、ランボーが自分の手紙のなかに書きつけた経緯(いきさつ)であろう。ニーチェの『ツァラトゥストラ』の第三部に、「それぞれの魂は、それぞれ別の世界をもっている。」とあるが、もし、ランボーが本心から「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と思ってこう書きつけたのだとしたら、彼が、ヨーロッパの家庭のその夥しい数の人間の魂のなかに「潜入」し、その夥しい数の「世界」を知り、その夥しい数の「他者」の思考に同調することができたと、こころからそう思って書きつけたのだとしたら、それは、彼の錯乱したこころが書かせたものに違いない。所詮、ヴァレリーがいうように、「われわれは自分の心中に現われるものしか、他人の心に忖度することができない。」(『雑集』人文学・二、佐藤正彰訳)ものであるのだから。一人の人間が保有できる人格の数について、その限度について、統計的な資料に基づいていうわけではないが、せいぜい、「十、百、もしくは千」といったところではないだろうか。ヨーロッパ中の人間と同じ数というのなら、少なくとも、「十万、百万、もしくは千万」もの人格を弁別する能力が必要なはずである。ランボーならば、そのような能力を有していたとでもいうのだろうか。しかし、それは、人間が持つことのできるぬ力といったものを遥かに超えたものであろう。
リスペクトールが、『G・Hの受難』で、「神は存在するものであり、あらゆる矛盾するものが神のなかにあり、したがって神は矛盾しないのだ。」(高橋都彦訳)と書いている。仮にそうであるとすると、「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」と正統に主張することができるのは、唯一、「神」だけであるということになる。もちろん、これは、「神」が存在するとしての話なのであるが。
たしかに、「わたしは神である。」と、言葉なら書きつけることはできる。口にすることもできる。しかし、「わたしは神である。」と「想像」することは、「わたし神である。」と思うことは、それが「神」自らの思考でなければ、狂人以外の何者の思考でもない。
したがって、ランボーが採ることのできた道は二つしかなかったことになる。彼が、自分のことを「神」であると主張するか、しないか、である。もし、主張していたとしたら、彼は自分がくるっていることに気がつかなかった、ということになるであろう。しかし、彼は主張しなかった。たしかに、「精神を通して、人は『神』に至る。」(『地獄の季節』不可能、小林秀雄訳)といった詩句を書きはしたが、じっさいには、自分のことを「神」であると主張しなかったのである。それは、おそらく、彼の気が狂っていなかったからであろう。「ヨーロッパで僕の知らない家庭は一つもない。」という彼の言葉が、あくまでも文学表現上のものであり、それが誇張表現であるということを、彼がはっきりと認識していたということである。もし、彼が、彼の手紙に書いていたことを、その言葉どおり、まっとうに推し進めていったならば、そのうちいつか狂気に陥らざるを得なかったであろう。文学的に後退することは、彼のプライドが許さなかったはずである。彼は、プライドを棄てる代わりに、文学を放棄したのである。放棄せざるを得なかったのであろう。
魂が二つに、あるいは、もっと多くに分裂しているということだけで、苦しみをもたらすということならば、たしかに、それを統合して一つの人格をつくり上げ、苦しみから逃れればよいのであるが、そもそも、じつのところ、人格が分裂しているという現象がなければ、われわれは他者を理解することも、延(ひ)いては、自分自身のことを理解することもできないものなのである。ヴァレリーの『邪念その他』Tに、「毎秒毎秒、われわれの精神には門番や家政婦の考え方がひらめく。/もしかりにそうでないとすれば、われわれはこうした種類の人びとを理解することも、かれらから理解されることもできぬだろう。」(清水 徹訳)とある。「毎秒毎秒」というのは、大袈裟に過ぎよう。「その都度、その都度」といったところであろうか。ところで、モームが、『人間の絆』13に、「生まれたての子供というのは、自分の身体が、自分の一部分だということがよくわからない。周囲の事物と、ほとんど同じように感じている。だから、彼らが、よく自分の拇指を玩(もてあそ)んでいるのを見ても、それは、傍にあるガラガラに対するのと、まったく変らない。はっきり自分の肉体を意識するのは、むしろきわめて徐々であり、しかも苦痛を通して、やっとそうなるのだ。ちょうどそれと同じ経験が、個人が自己を意識するようになる過程でも必要になる。」(中野好夫訳)と書いているが、ブロッホもまた『ウェルギリウスの死』の第Ⅰ部で、「涙をたたえるときはじめて眼は見えるようになる、苦しみの中ではじめてそれは視力ある眼となり、」(川村二郎訳)と語っている。筆者にも、まさしくこの言葉にあるように、人生においては、「苦しみ」を通してはじめてわかる、といった体験をいくつもしてきた。このブロッホの言葉に、モームの言葉を合わせて考えてみると、人間は苦痛や苦しみといったものを通して自他の区別をつけ、自己を形成していくものであり、さまざまなことを知っていくということになるのだが、プルーストの『失われた時を求めて』の第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』に、「苦痛の深さを通して人は神秘的なものに、本質にと、達するのである。」とある。ジュネの『薔薇の奇蹟』にも、「絶望は人をして自分の中から逸脱させます」(堀口大學訳)といった一節がある。ふと、漱石の『吾輩は猫である』十一にある、「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」という言葉とともに、サバトの『英雄たちと墓』の第Ⅰ部・5にある、「いったい自分自身の物語が結局は悲しいもの、神秘的なものではないような、そんな人間が存在するものだろうか?」といった言葉が思い出される。なにも、ヴェルレーヌやヘッセといった人間だけが、魂の引き裂かれる苦しみや苦痛を味わうわけではないのである。およそあらゆる人間の苦しみであり、苦痛なのである。
では、いつまでも、人間は、魂が引き裂かれる苦痛や苦しみに耐えなければならないのであろうか。おそらく、耐えなければならないものなのだろう。しかし、その苦しみは軽減させてやることはできるのである。その方策のヒントは、つぎに引用する、シェイクスピアの『リチャード二世』の第五幕・第五場のセリフのなかにある。「私はずっと考えつづけている、どうすれば/私の住(す)み処(か)のこの牢獄(ろうごく)を世界になぞらえられるかと。/けれども世界には数え切れぬ人々が住み、/ここには私以外には人は一人もいないから、/うまくゆかぬ、だが、ともかくやってみよう。/この脳髄(のうずい)は魂(たましい)の妻としてみてはどうだ。/魂は父親だ。この二つが思念の子を生み、/そしてこの思念は次々(つぎつぎ)と子や孫を生みつづけてやむことがない。/つまりはこの思念がこの小さな世界の住人となる。/この住人は現実世界の住人と気(き)質(しつ)を同じくしている。/思念は満足(まんぞく)することがないからだ。立(りつ)派(ぱ)な思念が生まれ、/例(たと)えば信(しん)仰(こう)上(じよう)の問題を考えても、たちまち/懐(かい)疑(ぎ)と混(ま)じりあい、一つの聖句を持ち出して対立させる。/例えば「小さき者らよ、来(きた)れ」という聖句にたいして、/「ラクダが針(はり)の穴(あな)を通るよりも、天国に入ることは難(むずか)しい」と、/別の聖句を対置して心を惑(まど)わせてしまうのだ。」、「こうして私は、一人でさまざまの役(やく)を演(えん)じながら、/どれ一つにも満足(まんぞく)できぬ。ある時は王者となるが、/反(はん)逆(ぎやく)を恐れてむしろ乞(こ)食(じき)になりたいと願い、/そこで乞食となれば、今度は貧(ひん)窮(きゆう)にさいなまれて、/王でいた時のほうがよかったと思い返す。/そこでふたたび王者となれば、たちまちにして/ボリンブルックに王(おう)位(い)を奪(うば)われたことを思い起こし、/今や自分が何者でもないと思い知るのだ。だが、たとえ/何者になろうと、私にしろ誰(だれ)にしろただの人間である限り、/何物によっても満足は得られず、ただ、やがて/何者でもなくなることによって、はじめて安(やす)らぎを得(え)るしかない。」(安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)である。このセリフの最後のところにある、「何者でもなくなることによって」という言葉がヒントになるのである。「何者でもなくなる」を、「何者でもある」という言葉に置き換えると、よいのである。「何者でもある」すなわち「何者でもあり得る」と認識することによって、人間は、魂の引き裂かれた苦しみや苦痛を、自ら軽減させることができるのである。では、その認識は、いったい、どのようにしたら得られるものなのであろうか。それには、「別の目を持つこと、一人の他人、いや百人の他人の目で宇宙をながめること、彼ら各人のながめる百の世界、彼ら自身である百の世界をながめることであろう。そして私たちは、一人のエルスチーヌ、一人のヴァントゥイユのおかげで、彼らのような芸術家のおかげでそれが可能になる。」という、プルーストの『失われた時を求めて』の第五篇『囚われの女』のなかにある考え方が、これはまた、ワイルドの『虚言の衰頽』のなかにある、「芸術といふものが靄を発見するまで、それは存在しなかつたのだ。」という考え方に繋がるものであるが、もっともよい方法を示唆しているように思われるのである。「百人の他人の目で宇宙をながめること」、「彼ら自身である百の世界をながめること」というのである。
「百人の他人の目」、「彼ら自身である百の世界」というもののうちには、たとえば、俳句における季語であるとか、短歌における枕詞や、本歌取りに用いられる古歌であるとか、連句や連歌や連詩の連衆たちによってその場で発せられる言葉であるとか、引用される文献であるとか、引喩で用いられる元ネタであるとか、じつにさまざまなものが考えられる。スタール夫人の言葉に、「フランスにおいては人間に学び、ドイツでは書物に学ぶ。」(『ドイツ論』1・13、道宗照夫・中島廣子訳、『フランス名句辞典』大修館書店)というのがある。スタール夫人のこの言葉は、後で引用する、ヴァレリーの自叙伝のなかにある言葉と呼応するものである。
トーマス・マンが、『魔の山』の第六章に、「思想というものは、闘う機会を持たなければ、死んでしまいます、」と、また、W・C・ウィリアムズが、『パターソン』の第一巻・序詩に、「知識は/伝搬しないと自壊する。」(沢崎順之助訳)と書きつけているが、たしかに、ポワローの述べているように、「批判者をもつことは、優れた本にとって必須である。公表した書物の一番大きな不幸は、多くの人がその悪口を言うことではなくて、誰も何も言わないことである。」(『書簡詩』X・序文、藤井康生訳、『フランス名句辞典』大修館書店)のであろう。ヴァレリーは、「真実は嘘を必要とする──なぜなら……対比なくして、いかに真実を定義しようか。」(『刻々』 HOMO QUASI NOVUS (殆ンド新シキ人)、佐藤正彰訳)と書いている。ヨハネによる福音書一・五にも、「光はやみの中に輝いている。」とある。創世記二・一八で、神が、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」といい、アダムにエバを与えたのも、そのほんとうの理由は、神が自己の存在をより確かなものにしたかったからであろう。ヨハネによる福音書一・一に、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」とある。ちなみに、ゲーテが、『ファウスト』の第一部・書斎・第一二二四―一二三七行で、この「言(ことば)」について、あれこれとさまざまな翻訳を試みている。「言葉(Wort)」、「意味(Sinn)」、「力(Kraft)」、「業(Tat)」というふうに。三島由紀夫の『禁色』の第三十三章にも、「ソクラテスは問いかつ答えた。問いによって真理に到達するというのが彼の発明した迂(う)遠(えん)な方法だ。」、「私は問いかつ答えるような対象を選ばなかった。問うことが私の運命だ。」、「それでは何のために問うのか? 精神にとっては、何ものかへ問いかけるほかに己れを証明する方法がないからだ。問わない精神の存立は殆(あやう)くなる」といった文章がある。以上のような言葉は、他者との鬩(せめ)ぎ合いのなかで自己の個性が発現するという、大岡 信の『うたげと孤心』の考え方にも通じるものであり、また、『邪念その他』Gのなかで、 「「他人」だけがわれわれから引き出してくれるものがある。われわれが「他人」からしか引き出さないものがある。/それぞれ御自分のためにこうしたサービスの対照表を作ってごらんなさい。/たとえば他人は、われわれから、言い返し、ウィット、感情、欲望、羨望、淫欲、思いつき、よき或いは悪しき仕打ちを引き出す。「他人」というものがその行為によって、あるいはただ存在するというだけのことによってそれらを触発しなかったならば、われわれは何と多くのことを抑制しもせず、なし得もせず、おこないもせず、願いさえもしなかったろう!/だがわれわれの方も「他人」から必要なものをほとんど引き出している。パンも引き出すし言語も引き出す。そして、「他人」の目つき、行動、ことば、沈黙の中に映っている、われわれ自身の多くのイメージを引き出す。/鏡はこうした「他人」のうちの一人だ。」(佐々木 明訳)といい、『自叙伝』のなかで、「わたしは自分の友人や知己には実に無限のものを負っているのである。わたしは常に会話から学んできた。十の言葉は十巻の書物に匹敵するのである。」(恒川邦夫訳)と語っているヴァレリーの「その詩人的本性によって──自分が遭遇し、目ざまし、ふとぶつかり、そして気づいた、──しかじかの語、しかじかの語と語の諧和、しかじかの構文上の抑揚、──しかじかの開始等、言語上の幸いな偶有事がその表現の一部を成すような叡智的な想像し得る統一的理論を探す人は、これ亦詩人である。」(『文学』詩とは、佐藤正彰訳)といった考え方にも通じるものであろう。なお、ヴァレリーに『文学』からの引用はすべて佐藤正彰訳であるので、以下、『文学』の翻訳者の名前は省略した。先のヴァレリーの言葉から、カミュの「理解するとは、まずなによりも、統一することである。」や、ボードレールの「想像力、それは分析であり、それは綜合である。」といった言葉が思い出されるが、相手の繰り出してくる言葉を即時に理解し、それに応えて、自分が拵えた言葉をつぎの者に送らなければならない即興的な連詩を、じっさいに体験したことのある筆者には、よく理解できる言葉である。ヴァレリーはまた、「思考には両性がある。己れを孕ませて、己れ自身を懐胎する。」(『文学』文学)といい、「われわれは、誰も明瞭に作ったものでもなければ、作り得たわけでもなかった数多の慣習或いは発明によって捕えられ、支えられ、制せられている。それらの間に「言語」があり、これこそ最も重要なもので、われわれ自身の最も内奥まで、われわれを支配しているものだ。これなくしては、われわれは秘密すらも持つまい、──われわれの秘密を持つまい。即ち、何世紀もの試みと、語と、形式とを以って、知らず知らずのうちにわれわれを作り上げているこの数百万の他人(、、)なくしては、われわれは自分自身と交通することができず、自分の考えるところを自分に提供することができない。」(『文学』詩人一家言)とも述べているが、まことに説得力のある言葉である。アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』にも、「個人は集団と対立しながらも、集団から糧を得るものだ。」(三野博司訳、『フランス名句辞典』大修館書店)といった言葉がある。ヴァレリーが語ったことを要約したようなこの言葉が、ことのほか筆者のこころの琴線に触れたため、住まいの近くにある府立資料館に行って、マルローの『侮蔑の時代』を読むことにした。一九九九年の二月四日のことである。雪が激しく降っていた。しかし、いくら探しても、件(くだん)の言葉は見当たらず、ほとほと困り果てていたところ、ふとなにか思いついたかのように、もう一度、『フランス名句辞典』の解説に目を通して見たのである。すると、そこには、「引用句は「序文」から。」とあって、筆者は、あまりに軽率な自分自身に、しばしのあいだ、呆れてしまったのである。いくら探しても見つかるはずがなかったのである。というのも、筆者が手にした、昭和十一年に第一書房から出され、小松 淸によって翻訳された『侮蔑の時代』には、「序文」がついてなかったからである。しかし、何度も読み返していて、よかったなと思えることもいくつかあった。まず、扱われている題材が、筆者好みのものであった。翻訳の文体の、それほど硬くもなく、軟らかくもない、ちょうどよい感じのものであった。また、レトリック的にも、新しい発見がいくつもあった。しかし、なによりも、筆者のこころを惹いたのは、その開いたページのところどころに、文字が削除されたために空白になっていたところがあったことである。それは、昨今の一部の小説によく見られる、会話が多いとか、改行が夥しいとかいったことによる空白ではなくて、伏せ字にあたる個所を削除して、その部分をそのまま空けておいたものである。伏せ字の処理が施してある本など、一度も目にしたことがなかったので、筆者には、なにかめずらしいものを発見したような喜びがあったのである。ふと、「大岡 信」特集号である、『國文學』の一九九四年八月号で、大岡 信が引用していた、松浦寿輝の『とぎれとぎれの午睡を が浸しにやってくる』というタイトルの詩が思い出された。これもまた、「至る所で字が飛んでいる」、「普通の叙述からぽこぽこ字を削ってしまった」(大岡 信による解説)ものであったが、この場合は、マルローのものとは違って、検閲という外的な要請によってなされたものではなく、松浦寿輝の個人的な事情、彼個人の内的な欲求によってなされた文字の削除による字(じ)面(づら)のうえでの空白である。検閲という制度には嫌悪を催すが、検閲という制度によって目にした書物には、なにかしら新鮮な喜びと、そのようなものを目にする機会を持つことができて、うれしく思った記憶がある。雪の降る日ではあったが、資料館から帰る筆者の足は、ずいぶんと軽かったことを憶えている。
ジョイスが、「ぼくたちが出会うのは常にぼくたち自身。」(『ユリシーズ』9・スキュレーとカリュプディス、高松雄一訳)と書いているが、これは、おそらく、パスカルの『パンセ』第一章の断章一四にある、「自然な談話が、ある情念や現象を描くとき、人は自分が聴いていることの真実を自分自身のなかに発見する。それが自分のなかにあったなどとは知らなかった真実をである。その結果、それをわれわれに感じさせてくれる人を愛するようになる。なぜなら、その人は彼自身の持ちものを見せつけたのではなく、われわれのものを見せてくれたのだからである。」か、あるいは、このパスカルの考え方の源泉にあたるものと筆者には思われる、プラトンの『メノン』にある、「こうして、魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にも知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。」(藤沢令夫訳)といった言葉に由来したものであろう。ヴァレリーもまた、『続集』で、「われわれはわれわれの存在によって内包されうるものしか認識できない。/もっとも思い設けない物事でさえ、われわれの構造によって待ち設けられており、そうでなければならない。」(寺田 透訳)と述べている。しかし、はたして、ほんとうにそれは、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」なのであろうか。
梶井基次郎が、『ある心の風景』に、「視ること、それはもうなにか(、、、)なのだ。自分の魂の一部或は全部がそれに乗り移ることなのだ」と書いている。ヴァレリーもまた、「別の人が一人はいってくることは、独りでいた人を即座に無意識のうちに変えてしまう。」(『刻々』備考、佐藤正彰訳)と述べているが、筆者が思うに、パスカルやプラトンらが、もともと「自分自身のなかに」、「自分のなかにあった」「もの」と考えたのは、それが、じつは、「視た」瞬間、「聴いた」瞬間、「知った」瞬間に、即座に彼ら自身のものになったものであるからと、つまり、その一瞬のうちに彼らによって理解されたものであるかたと思われるのであるが、如何であろうか。
ヴァレリーが「数々の他のもので自分を養うということほど、独創的なものはないし、自分(、、)であるものはない。しかし、それらを消化する必要がある。ライオンは同化された羊からできている。」(『芸術についての断章』二、吉川逸治訳)、「他人の養分をよく消化しきれなかった者は剽窃者である。つまり彼はそれと再認できる食物を吐き出すのだ。/独創性とは胃の問題。」(『文学』)と書きつけているが、まことに示唆に富む比喩である。たとえば、消化されるものの物性と消化する側の胃の状態によって、消化に要する時間や消化の具合が異なると考えると、物事を理解する速度や理解の度合いといったものが、理解される事柄の難易度や理解する方の能力などによって違ったものになるということが、容易に連想されるであろう。
そうして、極端な場合、自分が、そして、他人が、まるで別人のように豹変することがあるとしても、そのことを驚かずに受け入れるのである。難しいことかもしれない。しかし、とても大切なことである。だから、いつでも受け入れる準備をしておくのである。「それというのも人間は」「私たちとの関係で変化するとともに、彼ら自身のうちにおいても変化するものであるから」(プルースト『失われた時を求めて』第五篇『囚われの女』)、いわば、「各瞬間ごとに」「無数の」「「私」の一人がそこに」(プルースト『失われた時を求めて』第六篇『消え去ったアルベルチーヌ』)いて、「各瞬間ごとに」「無数の」「彼」「の一人がそこに」いると考えればよいのである。「自己の分裂をあらゆる瞬間に感じるからといって、」(モーリヤック『夜の終り』XI、牛場暁夫訳)、そのことで悩んだりして、自分のことを苦しめなくてもよいのである。「mutando immutabilis. 変化することによりて不変なる。」といった、ラテン語の成句でも思い起こせばいであろう。
ところで、プルーストが、『失われた時を求めて』の第三篇『ゲルマントの方』で、「天候がちょっと変化しただけでも、世界や私たちは作り直される。」と書いているように、たしかに、「各瞬間ごとに」、「あらゆる瞬間に」、わたしたちは変化しているのだろうけれど、しかし、ヴァレリーが、『詩学講義』の第十講で、「もしわれわれが、感性の瞬間的効果によってたえずひきずりまわされているなら、われわれの思考は無秩序以外の何ものでもなくなるでしょう。」(大岡 信・菅野昭正訳)と述べているように、これはとりわけ、決断や選択をしなければならないときに顕著なのだが、決断を下すために、選択するために、思考をめぐらす時間が、もちろん、事と場合によって、ほんの数瞬のこともあれば、数刻もかかることもあるであろうが、その時間においては、変化の停止状態か、あるいは、ほとんど変化のない状態にある必要があるのである。そうでなければ、ごくごく短い時間に、決定とその決定の打ち消しを繰り返すことになるかもしれないからである。そのようなことになれば、他者との関係において、非常に大きな不利益を被らなければならないことになろう。じっさい、筆者は話をしている最中に、よくころころと意見が変わるため、あるときとうとう、友人の小田眞澄に、「おまえは狂っている。」という、使徒行伝二六・二四にある言葉まで引用されて、筆者が精神病院に行って診てもらうまで、友人としての付き合いを控えさせてもらうと宣告されたのである。それからすぐに、一九九八年三月二十七日に、京大病院の医学部附属病院・精神神経科に行くと、医師に、「あなたの場合は、精神というよりも、性分や性格といったものの問題だと思います。」、「さしあたって、精神には異常は見られません。」と言われて、帰らされたのである。その晩、彼に電話を入れて、病院でのやりとりを伝えると、「精神でなくっても、性格に問題があるってのは、まだひっかかるけど、一応、気狂いじゃないんだ。」などと言われはしたが、また友人として付き合ってもらえることになったのである。そのため、それ以来、筆者は、ひとと話をするときには、自分の意見をほとんど口にしなくなったのである。「おまえは狂っている。」などと、二度と言われたくなかったからである。しかし、その代わりに、よく友人たちから、「なにを考えてるのか、さっぱりわからない。」といったことを言われるようになったのであるが。
「一人で交互に犠牲者になったり体刑執行人になったりするのは、快いことかもしれない。」という言葉が、ボードレールの『赤裸の心』一にある。ジイドもまた、『贋金つかい』の第Ⅰ部・八に、「自分自身からのがれて、だれか他人になるときほど、強烈な生命感を味わうことはない。」と書いている。筆者が、ヴェルレーヌに対する堀口大學の言葉にどうしても首肯できないというのも、彼が自分の魂を二つに引き裂いていたのが、じつは、より強烈な快感を得るためではなかったか、という疑いを拭い去ることができなかったからである。彼の『懺悔録』第二部・六にある、「私の苦悩は本能的に欲求なのだ。」(高畠正明訳)という一文を目にすると、なおさらそう思われるのである。ヴァレリーが、『邪念その他』Gに、「人は他人に聞いてもらうために胸を叩いて懺悔するのだ。」(佐々木 明訳)と書きつけている。ヨブ記二・一二にも、「声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。」とある。かつては、悲しみを表わすのに、大声を上げて泣き叫びながら、自分の着ている衣を引き裂いたり、頭に灰を被ったりすることがあったのである。ヴェルレーヌの振る舞いにも、これに似た印象を受けるのだが、彼の場合は、あくまでも演技的なものであるような気がするのである。ここで思い出した詩句がある。ボードレールの『どこへでも此世の外へ』のなかに、「お前は、もはや苦悩の中でしか、楽しみを覚えないまでに鈍麻してしまったのか?」(三好達治訳)といった言葉であるが、まるでヴェルレーヌのために書かれた詩句のように思われたのである。
つまるところ、自分が一つの固定した人格の持主であると考えることは、錯覚にしか過ぎないということである。したがって、魂が分裂していることに苦しんだり、苦痛を感じたりすることも、認識に至るまでは、仕方のないことであって、それは悲劇的なことではあるが、同時にまた、人間というものが、その悲劇的な事柄を受け入れることが充分に可能な存在であるということも、知っておく必要があるということである。もしかすると、これは悲劇的なことなどではなくて、一つの恩寵、絶対的な恩寵のようなものとして受け取るべきものなのかもしれない。
ふと、ヘラクレイトスの「たましいの際限は、どこまで行っても、どの途(みち)をたどって行っても、見つかることはないだろう。計ればそんなに深いものなのだ。」(『ヘラクレイトスの言葉』四五、田中美知太郎訳)といった言葉が思い出された。ランボーの「彼は何処にも行きはしまい。」(『飾画』天才、小林秀雄訳)という詩句とともに。はて、さて、なぜであろうか……。
ビセンテ・ウィドブロの『赤道儀』のなかにある、「ひとつの星に起きた一切のことをだれが語るのだろうか」(内田吉彦訳)という詩句をもじって、この第六連・第一―五行の注解を締め括ろう。
──一つの魂に起こった一切のことを、いったい、だれが語るというのであろうか、と。
第六連・第六行 博友社の独和辞典、「da そら、それ」より。
第六連・第七行 博友社の独和辞典、「sich da! ごらん」より。
第六連・第八行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「ね、私の彼女になって、」より。
第六連・第九行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「「キャスリンは君だ」」より。
第六連・第一〇行 ヘミングウェイの『エデンの園』第一部・1、「いいえ、私はピーターであなたが私のキャスリン、きれいなきれいなキャスリン。」より。
第六連・第一一行 オクタビオ・パスの「むかいあう二つのからだ」(『二つのからだ』桑名一博訳)より。
第六連・第一二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第一幕・第五九二二行、「泉は深い奈(な)落(らく)から沸(わ)きあがり、」より。
第六連・第一四―一六行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一六四二―一六四八行、「もしあなたが私といっしょに、/世の中へ足を踏み入れてみようとお考えなら、/私は即座に、甘(あま)んじて、/あなたのものになりますよ。/あなたのお相手になってみて、/もしお気に入ったら、/しもべにでも、奴隷にでもなりまさあ。」、第一部・書斎・第一六五六―一六五九行、「では、この世ではあなたに仕える義務を負(お)いましょう。/お指図に従って、休む間もなくはたらきましょう。/その代りあの世でお目にかかったら、/おなじ勤めをやっていただくんですな。」より。
第六連・第一七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・書斎・第一七三六―一七三七行、「どんな紙きれだっていいんですよ。/ちょっと一たらしの血でご署名(しよめい)をねがいます。」より。
第六連・第一九行 博友社の独和辞典、「unter heutigem Datum 今日の日付で」より。
第六連・第二一行 「私が眼の前に見ているものは、一つの痛ましい芝居、身の毛もよだつような芝居だ。」(ニーチェ『アンチクリスト』六、西尾幹二訳)より。
第六連・第二三行 吉田兼好の『徒然草』第九段、「まことに、愛着(あいぢやく)の道、その根ふかく、源(みなもと)とほし。六塵(ろくじん)の楽欲(げうよく)おほしといへども、皆厭(えん)離(り)しつべし。」、第二百四十二段、「楽といふは、このみ愛する事なり。これを求むることやむ時なし。」(西尾 實校注、旧漢字部分を新漢字に改めて引用)より。
第六連・第二四行 ゲーテの『ファウスト』第一部・森林と洞窟・第三三五〇―三三五一行、「例えば岩から岩へと激する滝が、/欲望に荒れ狂いながら深淵に落ち込むようなものだ。」より。
第六連・第二七行 ゲーテの『ファウスト』第一部・街路・第二六五九―二六六二行、「あの可愛い子の身についているものを何か手に入れてくれ。/あの子の休み部屋へつれて行ってくれ。/あれの胸に触れたスカーフでも、靴下留(くつしたどめ)でも、/私の気(き)慰(なぐさ)みのためにとってきてくれ。」より。
第六連・第二九行 博友社の独和辞典、「da nimm’s! そらやるよ(物をさし出す際)」より。
第六連・第三〇行 「おお、このかぐわしい息。正義の剣も/つい折れそうになるほど! もう一度。そら、もう一度。/死んでからもこのとおりであってくれ。さすればお前を殺した後も/お前を愛しつづけていられる。もう一度。これが最後の口づけだ。/これほどにも美しく、これほどにも恐ろしい女はかつてなかった。/泣かずにいられようか。だがこれは残酷な涙だ。この/悲しみは天の悲しみ。天は愛する者をこそ撃つ。」(シェイクスピア『オセロー』第五幕・第二場、安西徹雄訳、P・ミルワード『シェイクスピア劇の名台詞』講談社学術文庫)より。
第六連・第三一行 「おののきがわたしを襲った。」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部・教養の国)より。
第六連・第三三行 ゲーテの『ファウスト』第一部・寺院・第三七九四行、「ああ、苦しい、苦しい。」、第一部・夜・第四七七行、「心臓が掻きむしられるようだ。」より。
第六連・第三四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行、「おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。」より。
第七連・第一行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五八六行の後に挿入されたト書き、「(ファウスト、うしろに倒れる。死霊たちが彼を抱きとめて、地面に横たえる)」より。
第七連・第二行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一五九四行、「針が落ちた。事は終った。」より。
第七連・第四行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六八五行、「調子はずれの音が聞えるぞ、胸糞(むなくそ)の悪い響きだ。」より。
第七連・第七行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一四―一一六一五行、「ところが困ったことに、近頃では魂を/悪魔から横取りする手段がいろいろできている。」より。
第七連・第八行 「ワーグナーの遺体は私のものだ。」(ジャン・デ・カール『狂王ルードヴィヒ』鳩と鷲、三保 元訳)より。
第七連・第九行 ゲーテの『ファウスト』第二部・第五幕・第一一六一三行、「早速こいつに血で署名した書付を見せてやろう。」より。
第七連・第一四行 博友社の独和辞典、「die Kleinen 子供たち」より
(自 一九九八年六月十日 至 一九九九年三月二十日 加筆修正 二〇一〇年十二月七日―同年同月二十五日)