予感の年
岡部淳太郎
年が明けて二〇二六年になった。今年は様々な意味で
予感の年になるであろう。それは社会的にも個人的に
もだ。社会的にはしずかな崩壊への予感が次第に形と
なって現れてくるように思えるが、俺個人としてはど
うか。元々俺は二〇二四年に脳出血で倒れて以来片麻
痺となり、それまでの健康は既に崩壊している。それ
ならば、俺に訪れるものはいったい何だろうか。思い
返せば一九八〇年代という軽薄な、やがてバブルの狂
騒へと突き進んでゆく時代が苦手で仕方なかった。俺
の青春はその時代たともにあったのにも関わらずそう
であったのだ。つまり、俺の青春は時代と伴走してい
なかった。時代は俺とは無関係にバカ騒ぎをつづけ、
それを外から眺めているだけの俺は、ただの異質な部
外者でしかなかった。時代は俺に向かって微笑んでは
くれず、俺にはただ一人きりで耐えつづけなければな
らない膨大な時間があっただけなのだ。そう、俺はい
つどんな時でも単なる部外者でしかなくて、それぞれ
の時代のなかに入りこんでゆくことは出来なかった。
時代はいつだって俺を置き去りにして事実をつぶやき
つづけるだけなのだから、俺は俺で勝手につぶやきつ
づけるまでだ。つまり、外の社会がどんなに崩壊への
予感に震えていようと、俺は俺で勝手にやるだけだ。
俺は既に崩壊したのだから、俺は社会や世界とは無関
係に、それが崩壊するのを横目に見ながら、その事実
をつぶやきつづけるだけだ。そして俺は外側の暗い予
感とは関わりなく、既に先に崩壊した者の特権として、
自分だけ勝手な幸福への予感に眼を細めているだろう。
時代よ、勝手に震えているがいい。おまえたちが俺を
散々放置した報いとして、俺は一人で先に行かせても
らう。それへの予感。冬に射しこむ日差しのような、
少しだけ暖かい季節から離れているだけの無縁の光。
(2026年1月)