メモ2
由比良 倖

 日本語をただ、「日本語」として捉えることと、日本語をもっと大きな意味としての「言葉」として捉えることは、僕の中では感覚が違う。例えば、「日本語」と「英語」を、かっちりと隔絶したものとして捉えず、「言葉」という点においては両方とも同じなのだ、と捉えると、すっと英語に入れる。それは、「全ての言葉はひとつである」という感覚ともまた違う。
 まず、日本語という言語を、僕がその中にすっぽり入っているものとして考えず、距離を置いて、それを観察するような感覚がある。つまり日本語は僕を完全には規定しない(そもそも規定なんか全然して欲しくない)し、便利な道具でもないという感じ。日本語を含め、僕にとって言葉は、道具と言うよりは、生物や現象っぽい感じだ。
 僕は日本語に非常に興味があるけれども、日本語が全てだと考えることは避けている。逆説的なようだけど、そのような(日本語が全てじゃないという)視点からだと、日本語に深く親しむほどに、英語への理解も深まる感覚がある。「日本語への興味」よりも、僕は「言葉そのものに対する興味」を持っている気がする。
「日本語」と言うと、具体的な、とても偏った生物/動物みたいなイメージがあるけれど、「言葉」と言うと、もっともっと抽象的で、生物と言うよりは、生物のエネルギーのようなイメージがある。つまり、「日本語」は具体的な有機物、「言葉」はとても抽象的で無機的な「動き」のようなもの。僕は個物より、動きを扱いたい。
「日本語」と「英語」はお互いを異物として排斥し合うことも、反発し合うことも無い。あらゆる違う言語は、単に違う「動き」をしているだけだ、と僕は考える。あるいは、ひとつの「言葉」は、ひとつの「世界観」ではあるけれども、もちろん「世界」そのものではない。「世界観」は無限にあるけれど、「世界」そのものはひとつだ。例えて言うなら、生物は何億種類もいるだろうけれど、それらが皆、生物であるという点では同じだし、エネルギーを使っているという点でも同じで、そしてエネルギーはひとつだ。……と言うのもまた、僕のひとつの世界観である、ということは否定しないけれど、あらゆるばらばらなものの総体が世界であると考えるよりは、ひとつの繋がった世界を、あらゆるばらばらな視点から見ているだけだ、と考える方が、個人的には面白い。
 言葉について、僕は言葉を道具にはしたくないし、居場所にもしたくない。言葉に溶けていきたいし、言葉という、流れる川みたいなものに手を浸し、川を泳ぐ者でありたい。

*ここで少し脇道に逸れる。

 僕にとって書くことは、まず「動き」を固定するものではない。強いて言えば「動きを生きる行為」だ。ダンスのようなものだ。ダンスもまた、誠実なダンサーにとって、それは単なる動きの集積ではなく、その動きは、命と必然的な衝動を含んだものだろう。
 でももちろん、僕によって書かれた言葉を読んだひとりひとりの読者が、その「動き」を生き生きと感じられるかどうか、はまた別の話だ。作者としての僕は、言葉を「生きて」いたとしても。
 書くことは「僕という身体を使って言葉に命を与える、あるいは、言葉に耳を澄ませ、その命を感じる」という感覚に近く、故に「書くことは、僕に「動き」を通過させる行為だ」と言えなくもない。でも、やはり一番しっくり来るのは、「書くことは言葉を生きること」だ、という表現だ。
 さらに、もっと端的に書くなら、僕にとって「書くことは(言葉だけではなく、僕自身そのものを)生きることそのものだ」と言える。書いている時に、僕は非常に強く(「言葉の命」と同時に)「自分の命」を感じるからだ。「書くことは生きること」それが僕の端的な感覚。言い換えれば「書くことは僕の生きる理由」のひとつだ。
 その感覚はきっと、書くことに縁が無い人にだって、当たり前のように感じているもの、あるいは今は感じられなくても、誰もに備わっているものだと思う。例えば、ヘッドホンの中で音楽に溶けていくような時に。夢中な時、人は自分を忘れると同時に、最も自分が生きている実感を得られると思う。
 スポーツ選手はスポーツをすることが「生きること」だろうし、ゲーマーはゲーム、チェスプレーヤーや棋士はチェスや将棋が「生きる理由」なんだろうと思う。プロとかじゃなくても(そもそも僕自身が何のプロでもない)、誰しもにそういう、「生きている」と完璧に実感出来る時間があったらいいな、と思う。
 ちなみに僕は読み書きするときはもちろん、時間さえあれば音楽を浴びるほど聴いている。文字通り、スピーカーで音を浴びていることも多い(夜中はさすがにスピーカーで大音量で聴いてると両親や近所の人に怒られちゃうから、ヘッドホンは必須だけど)。僕は書くことと全く同じくらい音楽が世界で一番好きで、言葉(読むこと、書くこと、外国語を学ぶこと、言葉について考えること)が存在することと、音楽(聴くこと、歌うこと、作ること、演奏すること、音楽そのものについて考えること)が存在することは、僕が生きていることのもっとも大きな理由だ。
 他にも、想像することや思考することが好きだったり、人が好きだったりとか、いろいろ、僕が生きてる理由はあるけれど。あと、絵などの視覚表現を見たり、それについて考えたりすることも好きだし、絵を描くのもまあまあ好き。「好き」って本当に強いよね、心の底からそう思う。
「今まさに生きている」という感覚を、他の人がどんな時に得ているのか、すごく興味がある。(急にこれを読んでくださっている読者の方々へのカメラ目線になるけれど)あなたはどうですか? どんな時に、一番の、最高の喜びを感じますか? あなたの「好き」は何ですか、誰ですか? 普通の話をたくさんしたいけれど、あなたにとっての、単なる暇つぶしの手段や趣味ではなく、あなたが生きている時間、を僕は知りたい。あなたの存在を、もっと強く感じたい。

*本題の流れに戻る。

 ところで「動き」は身体に属している。脳だって身体だ。僕にとっては、僕自身はどこまで行っても具体的な存在で、抽象的な僕、というものは存在しない。僕が死ぬのは、僕の身体が活動停止した時だ。「君が死ぬのは、君のことを誰も思い出さなくなった時だよ」という意見には正しい面もあるけれど、誰かの思い出の中の僕が、新しく何かを自主的に考えることは出来ない。書くことも考えることも、身体活動だ。僕が生きている、とは、僕のこの身体が不断に動いている、ということ。古めかしい考え方かもしれないけど、知るとは感じることであり、血肉化することだ。抽象的な心が、抽象的な考えを内面化する、ということではない。身体とはまあ、デバイスであり、ただの道具かもしれない。でもそれは、僕にとって唯一のデバイスだ。代えは効かない。何故ならふつう、デバイスとは、この僕が使う、僕にとっては外部のものだけれど、僕にとっての身体というデバイスは、僕そのものであり、僕の内面そのものであるからだ。

 僕の身体の「動き」は、僕を超えて拡がっていく。僕が「動き」を作り出すのではなく、今までの「動き」の総体が僕だからだ(「僕」「僕」「僕」「僕」と気が遠くなるほど連呼された「僕」の集積が、今の「僕」を形作ってるみたいに)。「動き」は僕の中で完結したりしない。それは僕ではないいつか/どこかから、僕を経て、僕の外へと流れ出ていく。流れていく。そしてその流れの先で、誰かの心に、何かが届くかもしれない。たとえそれが非常に歪曲された形であってもだ。僕はひとりっきりでダンスを踊っているのかもしれない。今、僕はヘッドホンを付けて、たったひとりでキーボードを叩いている。でも、僕の言葉が誰かに届きますよう、と僕は祈っている。多分、きっと、すごく祈ってる。僕が伝えたいのは、内容よりも、寧ろ、その祈りの気持ちの方なのかもしれない。どこまでも個人的な僕が、どこまでも個人的な誰かの心を揺らすこと。願うこと。繋がりの可能性さえ、そこには存在すること。祈りが継承されるといい。誰かに、ひとりじゃないと伝わるといい。祈ってる。いずれ、どこかの未来で、それが届くといい。そしてまた、誰かの、あなたの祈りが、どこかで成就するといい。願ってる。僕はそう願ってる。


散文(批評随筆小説等) メモ2 Copyright 由比良 倖 2026-01-01 07:55:42
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