金属のシマウマ、あるいは驚異についての論考
牛坂夏輝

様々に叫ばれた共同作業の米噛について、私たちの逃避する沐浴主義は、考えなければならない。傲慢な鉱脈の中で、不正が横行する果実の色彩の中で、日付を自然に理解できる精神状態の中で、誘拐されたマヤ族の青年が夜に見る奔放な熱病の小舟の中で、私たちの柱時計が、不断に鐘の音の想い出を語る。雨が、清澄な狂気の物語を、語るだろうか、という問いが、この一九世紀に出版された非常に硬い靴の踵には、書かれている。まずは、そこから始まるのだった。それは驚異だろうか。驚異とは、渇望された棍棒と、ポプラの並木が出会い、なおかつ、弛緩した味気のない文章の死を、けっして認めない、嘘をつき続けるナイチンゲールの羽搏きのような、一連の道徳的な食事のことである。私たちは、樹液を舐める男の表情を見た。彼は、山脈の上で自らの眼球をくり抜き「ぼくは、愛するために深い挨拶をした。それは危険な潤いを、ぼくの精神にもたらしたのだ」と話した。注意深く、現象学的に見なければならない。未曽有宇の事態に髪の毛は芸術となり街を彷徨う。保護されないアスピリン製の讃美歌が、私たちに筋肉痛をもたらした。また、驚異について、考えよう。二つの不機嫌さがあり、一つは羊の腰骨、一つは土地に住む神の快楽である。マヤ族の青年の報告書には、驚異とは、薄暗い植え込みに潜む、まだ見たことのない熾火の色合いのことだと、書かれていた。理性の中で火が語り、先ほどの鐘の想い出が、やはり、遭難した音楽家の恋愛譚のように、冷たい痙攣をしながら、私たちの外部を揺らした。「ぼくの、バターライスの夢、果樹園、果樹園」その声は、一九世紀の展覧会において、ベートーベンに酷似した人物の横で、突如、発現した。偉大な吟遊詩人の困難、偉大な枕カバー、その他、折り重なっている巨大な鳥の群れ、それらが、軽蔑された経験として、展覧会では並べられた。それは、非ユークリッド幾何学の発見である。私たちは意味のない獲得物について、どう考えるだろうか。それを考えることは、またもや、驚異について考えることに、等しくなってくる。例えば、来世の欲求や、リスボンから東京にやって来た、緩慢な肖像画の精神を持った美しい頬の色をした青年、移動する金属のシマウマ、そしてナイチンゲールの羽搏き、それらをまた、私たちの筋肉痛が求めたのだ。現象を生成し、生成が現象となる、という自己言及のもとで、ランプシェードを覆う懐疑は、鶏とテーブル、ミルクと濃密な孤独を結び付けた。それらの結びつきこそが、私たちを晴れた日の沼地における絵画的生活へと導くのだ。そして、ゆっくりと空間が涼しくなっていくときには、服を着る。内面の衣服について、写真を見れば二人は困難な雲を曖昧模糊な遊園地の鍵穴のように抱えて、欄干に佇んでいた。二人は裸体であり、砕けた眼球と困難な悲劇性を纏っていた。フランスパンは鷲の脚を持ち、ライ麦パンは森の瞑想を持つ。逆行する形で演奏される緻密な構造を持つ終結部を欠いた船着き場が、私たちの望む形で、驚異を喚起する。喚起については、ペンデレツキ作曲の「ヤコブの夢」という楽曲を聴くことで、ある理解が深まり、私たちはその音楽を聴いて、あの樹液を舐める青年を、再び思い出したのだ。その表情は、持続的な文明における、火炎放射器の習慣的な主観性を、浮かべているようだった。彼は、自らの眼球をくり抜いて「ぼくは、夜に目覚め、鳥たちにバターロールを配る、ぼくは、念入りな殉教者として、ボルドー産の赤ワインを、音楽に変える」と語りながら、山脈をおりていく。彼の様子を見て、私たちは、静けさとは、ほとんどが呪いであると気づいた。砂が動く地面、滑らかな石ころが転がる岸辺、樹木の影が揺れる森の情景など、全ての沈黙を、彼は、ピアノによって、音楽に変換したのだった。論述はやがて詩的象徴を導入し始める。それは危機と出発について新しく定義を続けながら、保護されない霧の放浪癖や、あたかも浮遊状態の後に嫌悪の対象となる様々な楽天的な相互関係について、価値、幻惑、皮膚の概念を基にしながら、語るだろう。凹凸のある演説、脱穀機のうんざりするような自己処罰願望の強さ、弱弱しく無内容なオードブルを賞賛する首飾りの人々、調整された近代的合理主義の視点から予測された平面的な蝶の群れ、機械主義的なアミニズムにも似た硫黄とエコノミーな代償。残念ながら出発した神話の織物は、留保された三角形の子供たちにとっては、毒にしかならない。呪いとは発令された青空の職業であり、沈黙を適用しない視点であり、ワラの騎士団による抒情的な回答集である。最初に戻るが米神は荒廃していたとしても、そこには一輪のサルビア・スプレンデンスが花を開くのだ。そこに必要なものは流布された軽蔑と、海辺の自動販売機に似た動物である。その動物は、驚異について、どう考えるだろうか。私たちが考慮すべきことだろう。驚異とは、極度に圧縮された田園の伝説であり、断崖でギターを弾く白骨化した少年の豪奢な人生の羽毛であり、艶やかな知的特権であり、黒いサイバネティクスによる観察であり、異常なまでに同一化を求める現代的な予言の数々のことである。より悪質な蝶は、条件と類似した僧侶たちの批評を、吊り下げて飛ぶ。直接的な用途を持たない角笛や、崇高な散歩は、もはや感動を誘発しない。理性の中で火が語り、窓枠の縁が痙攣する。誘拐されたマヤ族の青年は、致命的な水泳について、ずっと考えている。それは、原初の砂糖類、原初の尿管結石、原初の磁石、叡智と甲殻類の交尾をも、混合していく。彼の美しい頬が干からびていく夜の中で、私たちの柱時計がまたもや、くりかえし、不断に、鐘の音の想い出を語った。


自由詩 金属のシマウマ、あるいは驚異についての論考 Copyright 牛坂夏輝 2025-12-21 11:56:35
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