たとえばその日
ホロウ・シカエルボク


明け方近く、二十四時間営業のストアーで買物を済ませて帰宅途中だった女が日本車に轢かれたってネット配信のニュース番組で知った、それは十二月の寒い朝を少しも揺るがせはしなかった、ああ、可哀想に、と一瞬思って忘れただけだった、誰かの死なんてどこにでもあるし、聞き流してしまえる程度には慣れてしまわないと街ではやっていけない、今日は電車で出かけようと思っていたけれど気が変わるかもしれない、気分屋が悪い方に作用しそうな気がしていた、だからといって抗いたいような気持でもなかった、結局のところ身体が求める方に動かなければ居心地の悪さがいつまでもつきまとう、気分屋だからって別に自由に生きているわけじゃない、時にはそんな自分に縛られる一日だってある、気分屋だから、頑固だから、真面目だから、不真面目だからで何かが誰かよりも得だなんて事は無い、鳥は空を飛べるけど走ることは下手だ、魚は水の中では泳ぎ続けられるが陸に上がることは出来ない、肉食獣は獰猛だけれど群れを成して自衛に勤めることには向いていない、どんなやつだってどこかが秀でていればその分何かが欠けている、そこからバランスを選ぶのか特出した部分をさらに伸ばすことを選ぶのかはそれぞれの判断だ、もちろんそこには自分の人生や性格について意識的に生きているかどうかという前提がある、そこに立つことすら出来ずに無条件に自分を肯定し続けるだけの人生を送る者だってうんざりするくらい存在するのだ、朝食を終える、ニュースを見ることを止め、動画サイトで懐かしい音楽を少しの間楽しんで、それから食器を洗う、食事を終えた後のキッチンはいつでもしんとしているように感じる、ひとつの動作が終了すると、場所はいっとき意味を失くすのかもしれない、そう考えると人間の存在なんて曖昧なものだ、自分自身のテリトリーでさえここに居たり、あそこに居たり、もしも自室に居る時に誰かがキッチンを覗いたとしたら、ここの主は留守なのだろうかと思うだろう、そして俺はその認識を訂正するどころか、そう思われたという事実すら知らずにのんびりしているのだ、それはつまるところ人間関係というものの本質でもある、目に見えているものだけですべてを判断してしまうのは愚かなことだ、けれど、他の部屋に誰か居るかもしれない、なんて考えが微塵も浮かばないような連中というのは大勢居る、あとは、自分が留守だと思えば留守なのだと痴呆症の老人みたいに繰り返すのみだ、個人的な感想だけれど、そういう人間は皆政府の補助のもとで目玉を刳り貫くべきだと思う、世の中を悪くしているのはいつだってそういう連中なのだ、子供の頃に駄々を捏ねれば世界が変わると勘違いをして、それに気づくことすら出来ないまま無駄に歳だけ食った連中、目を見張るほどの愚かしさだけれどそういう人間は別に珍しくも無いのだ、悲しいことだし、馬鹿馬鹿しいことだけれど、さて、どうしよう?俺は予定通り電車に乗ってどこかへ出かけるだろうか?でもいまは本当にそんなことがしたいのだろうかという気持ちになっていた、だからしばらくの間部屋でじっとしていることにした、見てみたい動画もあったし、部屋の中で片付けておきたい場所もいくつかあった、どうせ今日は休みなのだ、一日中考え事をしていたって構わない日だ、何かを思いつくまでのんびりしていたっていい、考え事をするという行為を忘れてしまった人間がずいぶん増えたような気がするすぐに手に取ることが出来る答え、すぐに答えを出してくれる何か、考えなくても構わない安易な理屈、そういうものが世間に蔓延しているような気がする、脳味噌を極限まで回して得ることの出来る一過性の結論が身体にもたらす快楽のことをもうみんな忘れてしまったのだろうか、それとも今頃そんなものにこだわっているのは俺だけだということなのだろうか、ポップスの歌詞は誰のどんな曲を聞いても同じ感触に聞こえるようになった、同じ人間が書いているのではないかと思えるくらい同じ言葉しか使われていない、メインストリームに落ちている言葉がそんなものだということは、今はその程度でいいのだなということなのだ、もう誰も眉間に皺を寄せて人生について考えたりなんかしない、消化試合の様な人生を時流に乗って生きているだけなのだ、俺はその世界に挑むことについて考えてみる、俺にその世界を壊すことは出来るだろうか?出来ない気がする、それはすでに貨幣価値と同じくらいの確固たるものになってしまっている気がする、標準の枠の中にすっぽりと入ってしまって、枠外のものはもう必要とされていないのだ、そこに向けて声を上げることにどんな意味も存在しないような気がする、どんなことをしても交わることがない線というのは確かに存在する、ならば俺は何をする、もとより誰かがどう思うかなんて事はどうでも良かった、行くべき場所はわかっている、でもどんな風に行くんだ?ふとそれは、今日電車に乗るのかどうかという問題とほとんど同じものだという気がした、どうして今さらそんなことについて考えようとしたのだろう、古い有名な物語にあるじゃないか、生か死か、答えを出しておくのはそこについてだけで構わないのさ。



自由詩 たとえばその日 Copyright ホロウ・シカエルボク 2025-12-17 21:33:15
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