おつかれさまの時間
百(ももと読みます)
8:27a.m.
あゝ本日はお仕事の体験の日だ。まばらな食欲でごはんを食べてから駅まで歩く。車って、動いているだけぢゃないのだな。そこにもひとがいて、目的があって、朝の時間であるとほとんど団子に通勤だっ。
みんなのいるところにぼくもゆけそう。わぁいって想って、そして、びっくりする。僅差で電車に乗り遅れた。
やむを得ずバス停で待機している。いつでもバスは遅れてやってくる。なにかの救いかとも感じられて、わくわくしながらバスを待つ。
◯
8:40a.m.
電車もいいけれど、バスがすきだぁ。こちらの方向には夏のお友だちと一緒によく乗車していたんだ。海がみえるよ。わぁい。
スウェーデンの瞑想教師のお書きになられた本「私が間違っているかもしれない」がそばにある。
通所に時間がかかるために徒歩をまじえる必要性が経済的な観念にかなうと考えていたが、申請中でも障がい者手帳を提示することでわり引きが適用されるという。
時間の労力を温存させることが可能だ。そんなことも知らなかった。明らかに、ぼくが間違っていることだらけだ。
もうひとりでたたかう必要はない。無論、ひとりでたたかえるというのは幻想だ。大切なひとを傷つけて、いままで、ぼくは、なにをやっていたのだろう!
◯
12:23p.m.
静かな面子がお揃いの職場だ。わり与えられたスペースに個人用のパーソナルコンピュータがあって、めいめいでお昼ごはんを食べている。内気な雰囲気が心地よく、ぼくは昼食をとらずにイヤマフをつけて読書している。
雑念から始発した希望に追い風は吹かなくて。ぼくは囚われた自分へとゆっくりと手錠をかけてもて遊ぶようなことを随分と長くしていたのだな。荒波に身を任せることは思いのほか簡単なのだ。その波には、まるで実態がないのだから。
静けさのある穏やかな波、いまはひとについて、そう考えている。
◯
(おつかれさまの時間)
あどけない可愛らしさがある。それを障がいだと感じる術をぼくはもたない。ここにいる誰も傷つかないといいな。
自由に動けるから、お仕事をするんだ。守るために、こころを働かせられるから、お仕事が必要なんだ。
+
否定ではじまるくらいなら、暗がりで彷徨うくらげとなって、どこまでも漂いやがれと、幼心のぼくについて想う。
どこまでも、その子の不器用ながんばりを守り通すためにも、いまのぼくがきちんと立っていなくちゃあ。それでも、暗い海のなかで握りこぶしをつくってまで、がんばらなくていいよ。
きちんと泳げるのだってこと、そこで息もできるのだってこと。ちっぽけなぼくの勇気が一所懸命な働きのもとで実を結びますように。