むかし、北の山あいに、たったひとりだけ色のちがう鬼がいました。赤鬼でも青鬼でもありません。その鬼の肌は、冬の曇り空のような――淡く沈んだ灰色でした。
仲間の鬼はみな、虎の褌を締め、強さのしるしのように誇らしげでしたが、灰色の鬼だけは、どこで拾ったのか、くたびれた熊の毛皮を、頭からすっぽりと、かぶっていました。その姿は、群れのどこにも属さない影のようで、気づけば鬼は、山のどこを歩いても、ひとりぼっちになっていました。
夜、山をわたる風は、木々の枝をそっと鳴らし、ひゅる、ひゅる、と歌います。灰色の鬼は、その歌を聞くたび、胸の奥が、ぎゅう、と音もなくしぼるように痛みました。
けれど、風の歌が途切れたあとの沈黙はもっとつらいものでした。獣たちが一斉に気配をひそめてしまったような、重たく冷たい――獣たちの沈黙。その沈黙に包まれると、鬼はいつも心の中でつぶやきました。
「……わたしは、誰からも呼ばれない。」
そんな冬の夕暮れのことです。灰色の鬼は、山道を下る人間の親子を見かけました。子どもの手は赤く、母親はその小さな手を包むように急いでいました。
ふいに、幼い子がふり返りました。その目が、一瞬だけ、鬼に触れたように思えました。怯えではなく――何か、涙をこらえているように、微かな温もりが混じっていたのです。灰色の鬼は胸をつかれました。
(もし、あの子が、わたしに「こんにちは」と言ってくれたなら……?)
その「もし」は、鬼の胸に、小さな灯のようにともりました。息を吹きかければ消えてしまいそうな弱い光でありましたが、鬼が生きてきた長い年月で、誰かに灯してもらったことのない――初めての光でした。
けれど親子はすぐに見えなくなり、風はまた、ひゅる、ひゅる、と吹き、獣たちは深い黙りへと沈みました。
灰色の鬼は、その「もし」を胸に抱いたまま、ゆっくりと村へ歩き始めました。どうしてそうしたのか、自分でもわかりません。けれど、胸の灯が、そっと“生き物の居る方へ”“声の有る方へ”鬼の足を押すように、揺れていたのです。
村の明かりが、ぽつり、ぽつり、灯る頃、雪が静かに降り始めました。その雪は白いのに、どこか温かく、鬼の影をそっと包み隠すようでした。
そして、ようやく村の入り口に辿りついた時、どこかの家の戸が開き、親子の声がしました。
その瞬間です。
――鬼の胸の灯は、消えることも、強く燃えることもせず、ただ涙に変わる手前の、あたたかい余韻だけを残しました。
鬼は、なにも壊さず、なにも奪わず、ただ静かに村を離れました。帰る場所を持たぬ者だけが選べる、静かな終わり方でした。
山へ戻る道すじで、風はもう歌いません。ただ、獣たちの沈黙だけが、灰色の鬼の後を、深い雪の上にそっとついて行きました。雪明かりの中、灰色の鬼の背中は、まるで最初から、誰にも見つけられぬ影だったかのように、細くなり、やがて風にまぎれて――そっと消えて逝きました。
ただひとつ。雪の上には、あの子がふり返った瞬間の、“もしもの光”だけが、鬼の通ったあとに、いつまでも静かに残っていました。
※原作「灰色の鬼」を修正しました
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