沼の守り火(河童三郎の物語)
板谷みきょう

1. ぬらくら川と暮らしの音
「何十代も続いたうちの家も……さいごは、……沼ん底に沈んじまうんだと……。」


爺さまは、濡れた袖で鼻をすすりながら、ぽつり、ぽつりと呟いた。その声は、日が落ちたあとの薄いもやのように冷たく、寂しく、深い大地の奥にずぅっと染みとおっていったんでございます。


村は、ぬらくら川の絶え間ないごう音に包まれておりました。昼も夜も川は怒り狂い、岩にぶつかって泡を散らし、村人たちの耳に不安を囁きかけていたとさ。


囲炉裏では、薪が湿気を含みながら、ちろちろと爆ぜる。そのかすかな音の向こうから、遠くで子どものぐずる泣き声が聞こえてくる。それは飢えによるものか、川への恐怖によるものか、誰も判別できない。軒先には、カラスが鳴き、その声すらも、湿った空気に重く響く。


平野の村は毎年、川に怯え続けたんでございます。田畑は水に覆われ、作物は腐り、収穫は風前の灯。貧しさは、この土に染みついた古い影のように、村のどこを切っても取れないものとして、全体を覆っておった。


村長は夜更け、誰もいない座敷で徳利を傾け、静かに、しかし、苦い顔で腹を決めた。


―――これより他に道はない。山の中腹にダムを造る。村を救うために。千の命を救うために、百の命を沈める―――


その決断は、小さな集落を水の底に沈めることを意味しておりました。集落のそばには、昔から「心の水鏡」と呼ばれる三郎沼があったのさ。


「三郎沼も……いよいよからからに干上がっちまうだのう……」


婆さまの呟きは、水底に沈む小石のように、誰にも届かぬまま、ゆっくりと沼の奥へ落ちていったんでございます。


水の底で、三郎はじっと、じいっと聞いていた。暗く冷たい水の中で、孤独は彼の全身に染みつき、小さな心をぎゅっと締めつけていたとさ。


―――おらの家も……なくなるんだか……。光の届かぬ泥の匂いのする、このおらの居場所までも……?


2. 三郎の孤独な決意
沼の命運と、人間への恐怖。孤独な河童にとって、唯一の家を失う絶望と、唯一自分を受け入れてくれた爺婆への情が、綱引きのように、その恐怖を押しやったのでございます。


雨上がりの夜、雲の間から月がのぞき、またすぐ隠れる。


三郎は皮膚のすべてで外界を感じていた。湿った空気の匂い、泥の冷たさ、遠くの森の、深く濃い草の匂い……。彼は人間には見つからぬよう、ぬめりを帯びた影のように、集落へ姿を現した。彼の体は、闇の中で淡く青く光っていたとさ。


「おらが……村長に会って、ダムを造らせねぇように頼んでくる。必ず止める。」


そのぶっきらぼうな声の裏に、小さな不安と、二度と沼へは戻れぬかもしれないという戻らぬ覚悟が、強く揺れていたという。彼は、あの夜の座敷で、村長へ血判状を置いた。


「おらが命にかけて、龍神さまに頼んでくる。ぬらくら川を、もう氾濫させねぇようにな。だから……来年まで、ダム造りはどうか待ってくれんか」


三郎は言い残し、誰も知らぬ深い谷へ、音もなく、寂しく消えていったのでございます。


泥と露にまみれ、孤独と、そして恐怖を抱え、故郷の沼を何度も振り返りつつ、彼は自己犠牲の旅へと向かったとさ。彼は知っている。人間は、命の重さを比べたがる生き物だということを。そして、ちっぽけな河童の命など、数に入らないということを。


3. ダム計画の現実
三郎が山奥へ消えた直後、村には人間側の現実が容赦なく降りかかった。


測量隊が村に入ってきたんでございます。鉄の音、測量器具の金属のきしみ、それに伴う木の葉のざわめきが、静かだった山あいの生活を一変させた。


集落の者たちは、立ち退きを迫られ、怒声や泣き声、奥羽の強い方言での罵りが、村長や役場の人間と交錯した。


「わしらの家を、おめえらは水の底に沈めて、何食わぬ顔で暮らすつもりか!」


「時代の流れじゃ! 諦めるしか仕方ないべ!」


夜、爺と婆は、囲炉裏の炎の揺らめきだけに向かって、静かに話したとさ。


「測量杭が、うちの裏にも打たれただなぁ。あれが、わしらの家の墓標になるんだべか」


「そうだべさ……でも、三郎がなんとかしてくれるだわな。あの子、わしらを放っておくような、薄情なもんでねぇはずだ」


三郎の存在は、希望の象徴でもあった。しかし、ダム計画の進行は止まらず、村人たちの心に、希望と絶望の緊張を積み重ねていったんでございます。希望にしがみつく集落の者たちと、ダム賛成派の者たちとの間には、深い溝が刻まれていったとさ。


4. 龍神との対話
三郎は、幾日もの夜をかけて、龍神の住むとされる深い谷にたどり着いた。そこは、常に湿った岩に水が滴る音と、湿った土の匂いが充満し、遠くの滝のとどろきが、まるで大きな生き物の呼吸のように響く場所であった。


三郎は、岩陰から震えながら、谷の中心にある大きな滝壺へ向かって、声を絞り出した。


「龍神さま……おら、河童の三郎だ……。どうか、この村のぬらくら川を、もう氾濫させねぇようにしてくれねぇか……」


滝壺の水面が、雷のように波打ち、巨大な影が姿を現した。


「命を差し出す覚悟はあるか、河童三郎。お前一匹の命で、この地のあまたの悪運を断ち切れると、本気で思っているのか」


龍神の声は、山々を揺るがすように低く、威圧的であった。三郎は、恐怖で身がすくんだが、沼と爺婆の顔を思い出し、決死の覚悟で答えたとさ。


「おら……おらの全てを、かけるだ。この沼が、干上がっちまうのは、寂しすぎるだ。どうか、この命を、川の鎮めに使ってください。さすれば、集落は沈まなくて済むだべか」


龍神は、しばらく沈黙した。谷を満たすのは、滝の轟音と、三郎の小さな心臓の鼓動だけであった。


「分かった。河童よ。その孤独な決意、見届ける。だが、その命は、もはや元の場所には還らぬ。お前が捧げた命の対価として、この地を護ろう。」


三郎は、龍神の言葉の重さに、ただ身を小さくして、深く頭を下げた。彼の目には、二度と見ることのない、沼の暗い水が映っていたかもしれぬ。


5. 星の下の祈り
その年の夏、空は昼も夜もわからぬほど黒く、雨は大地を叩き続けていた。


村人たちは集会所に集まり、肩を寄せ、息をひそめた。誰もが三郎が戻らぬことに不安を覚えつつも、希望を捨てきれずにいた。


「三郎が……龍神様に願いに行ったって話じゃねぇか。あの子は必ず、村を護ってくれるべ


囁きは交錯し、不安とかすかな救いが混ざり合った、そのとき―――


ドッカーン! ガラガラガラガラーッ!


山を裂く雷鳴が轟き、地を震わせた。村人たちは、あまりの恐怖に顔を覆うた。


その雷鳴の後に、太く低い声が山々を揺るがして落ちてきたんでございます。


「河童三郎の命と引き換えに、この地を護ろう。今日より、ぬらくら川は二度と氾濫せぬ」


村人は震え、龍神の声だと悟り、一斉に額を地に押しつけて祈った。「なむ、なむ、なむ……」


厚い雲は裂け、夕暮れの空に、濡れた一つ星がぽつりと灯ったとさ。それは、まるで三郎の小さな瞳のようであったかもしれぬ。


「ありゃあ……三郎だ。沼を護った三郎が、星になったんだべな。村を救う、尊い神さまに……」


爺と婆は、長年の苦難が溶けるように涙を浮かべ、何度も静かに手を合わせた。三郎は「村を救った尊い神」として、人々の都合の良い希望と信仰の中に、永遠の存在となったのでございます。


6. 三郎の本当のこと
―――だが、その頃。


人々が“星になった神さま”と信じて拝む三郎の体は、誰も知らぬ奥山の湿地で、静かに、確実に、冷たくなっていたのさ。


龍神に命を捧げたあと、三郎の亡骸は、誰にも看取られることなく、雨に打たれ、泥にまみれ、横たわっていた。


肉はゆっくりと形を失い、腐乱が始まっていき、その身からは、夜風に溶けるような哀しい悪臭が立ち上り、湿った土を静かに犯していった。


美しいと信じられた犠牲の裏にあるのは、目を背けたいほどの孤独な真実であった。三郎はただ、自分の沼を守りたかっただけ。その純粋な願いは、村人には「神の救い」として、温かく、美しく語り継がれてゆく。


しかし、三郎の本当の姿を知るのは、湿った山の土と、滲んだ水だけだったのでございます。


7. 守り火の永遠
今も、村のどこかの囲炉裏の小さな炎は、村の生活を暖め、人々を安堵させる一方で、河童三郎の哀しき一生を、誰にも知られぬまま、そっと火がちろちろと燃えて温め続けているのでございます。


ダム計画は中止され、ぬらくら川は氾濫しなくなった。三郎沼は「心の水鏡」から「神の宿る沼」として、集落とともに残っておった。


火の揺らめきに、かすかに水音が混じる。
その度に水音は、誰も知られぬまま、三郎の存在を思い出すのでございます。


※原作「河童伝」を修正しました
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=364535


散文(批評随筆小説等) 沼の守り火(河童三郎の物語) Copyright 板谷みきょう 2025-11-22 11:20:54
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