屏風山の奥深い森の、そのまた向こうに、ひときわ白く光る峰がありました。
それは「せせらぎの峰」と呼ばれ、森の獣たちは夢のように囁きました。
「頂に立てば、この世の果てまで見え、生きるもののすべての真実が分かる――」
その語りだけが、いつとも知れぬ昔から森に漂っていたのです。
けれど峰は、いつも厚い雲に隠れていました。
遠くて確かめようもない光は、子どもが胸の奥に抱える、答えの出ない問いのようでした。
雑木林を縫うように、「ぬらくら川」がゆるやかに流れていました。
川のほとりには、青蛇が一匹、ひっそりと暮らしていました。
ほかの獣たちは、食べて、眠り、群れを作る。
定められた暮らしで、誰もが満足していました。まるで世界という大きな家に安心して住むようでした。
しかし青蛇は違いました。
小鳥が楽しそうに歌うと、そっと近づきました。
「ねえ、君たちは、誰のために歌うの?」
小鳥たちは首をかしげます。
「誰のためでもないよ。歌いたいから歌うのさ」
冬ごもりの準備に忙しい熊を見て、青蛇は尋ねました。
「そんなに一生懸命働いて、何になるんだい?」
熊は面倒くさそうに答えました。
「何になるって? 冬を越すんだよ。それだけで十分だ」
仲間たちの答えは、青蛇の胸のぽっかりとした空洞に届きません。
遠く離れた岸辺に一人立つような、冷たくて重い孤独が、青蛇の中で揺れ続けました。
その満たされない痛みが、青蛇を龍という存在へと駆り立てました。
龍とは、森のすべての「あたりまえ」を超えた、孤独で完全なかたちを持つもの。
青蛇は龍になることで、この空洞を埋め、「さみしくない自分」という輪郭を得たいと、激しく願ったのです。
秋の午後、紅葉の木の下に獣たちが集まっていると、空の雲がふいに裂けました。
青い空の向こうに、まばゆい白さでせせらぎの峰が姿を現しました。
胸に押し込んでいた焦りが、炎のように燃え上がります。
青蛇は叫びました。
「私は峰へ行く! この胸の空洞を埋める答えを、必ずあそこで見つける!」
長老のみみずくは、静かに目を伏せました。
「いにしえより、神々の残した石の文には、こう記されておった。
『見よ、せせらぎの峰に立ち、すべてを知る者たちを。
翼ある者は、今こそ鳳凰(ほうおう)と化し、
足持つものは、光まとう麒麟(きりん)となり、
その道の途(みち)を選びし、その他すべての生きとし生けるものは、
大いなる龍(りゅう)となりて、かの頂(いただき)に臨むべし』
しかし、龍となるには、ぬらくら川を下り、『荒れ狂いの大海』で、七つの、人の世の冬を越えねばならぬと聞く……」
青蛇は振り返ることもせず、ぬらくら川へ身を投げました。
ぬらくら川はすぐに牙を剥きました。
激流は青蛇の体を打ちつけ、鱗を剥がし、誓いさえも水に溶かして流してしまいます。
やっとの思いで入り江にたどり着くと、海は黒い雲と稲光に覆われ、荒れ狂う嵐が待っていました。
青蛇は力尽き、そっとつぶやきました。
「私は……龍にもなれなかった。ただの、さみしい青蛇のままだった……」
入り江の岩陰で静かに生き延びた青蛇。
故郷へ戻る道は、もうありません。
屏風山の獣たちも、青蛇のことを忘れてしまいました。
森は何事もなかったかのように、季節を繰り返します。
「私という孤独が、この世界を変えることは、一度もないのだ」
その無関心が、青蛇の胸をさらに深い空洞で満たしました。
ただひとつ。
毎年秋、紅葉の木から落ちた赤い葉が、ぬらくら川を伝い、静かな入り江まで流れてきます。
葉は、青蛇の苦しみを知りません。慰めでも便りでもありません。
ただ、水が流れ、葉が落ちる、冷たい偶然のくり返しです。
しかし青蛇は、その葉を見つめ、かすかな安らぎを覚えました。
「この葉は私を呼んでいない。でも、故郷から届くものだ」
遠い日の仲間たちとの小さな思い出が、胸の奥に光りました。
龍になっても孤独は消えない。
でも、故郷の思い出のように、小さなつながりを大事にすることだけが、世界と静かに繋がる道なのかもしれない――。
川は流れ、紅葉は今年も青蛇のもとへひっそり届きます。
青蛇は、英雄になることをやめ、ただのさみしい青蛇として、今日も入り江で孤独を抱きしめ、生き続けました。
※原作「もみじ」を修正しました
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=365169