一 氷が息をする村
むかし、奥羽(おうう)の北の、そのまた北。山の影ばかりが伸び縮みする寂しい谷に、萱野(かやの)という小さな村があった。
冬になれば、雪は人の背丈を越えて積もり、家々は白い棺のように沈黙した。
夏が来ても、お天道さまは峯に隠れ、畑の作物は雛鳥のように身を縮めた。
村人の顔には、血の気が薄れ、みな「腹の底の寒さ」を抱えていた。
村外れからさらに奥へ踏み込むと、谷風が身の皮を剥ぐように吹きぬける。
その先に、誰も名を口にせぬ黒い淵――**業ヶ淵(ごうがふち)**があった。
食う物が尽きる冬になると、年寄りがひっそりとそこへ連れて行かれた。
村では誰も語らぬ掟のようなものだった。
昼に一人が消えると、その夜には決まって、
「ウォォ……ウォォ……」
と、風とも獣ともつかぬ声が響いたという。
火を囲む大人は目を伏せ、子どもは耳をふさいで震えた。
ただ、残された年寄りだけが目を閉じて言った。
(あれは鬼じゃ。人が人の味を覚えてしもうた嘆きの声じゃ……)
二 母が噛んだ岩茸(いわたけ)
そんな村に、与一(よいち)が生まれた。父は早くに亡くなり、与一はおっかあと二人きりだった。
おっかあは枯れ枝のように痩せていたが、その眼だけは冬星のように強く光っていた。
ある吹雪の夜、幼い与一が高熱を出した。
おっかあは独りで雪山に入り、断崖にはりつく岩茸(いわたけ)を命がけで採ってきた。
自分は泥水で腹をなだめながら、その岩茸を口で噛み、噛み、息を混ぜて柔らかくし、与一に食わせた。
「与一や。母の命じゃ。これを食うて、生きろ」
その言葉どおり、与一は岩茸のように黒々と、鉄のような体に育った。
だが鏡を見るたび、肌がどこか透き通って見えた。
――母の命を喰うてできた体なのだ、と。
やがておっかあは老い、働けなくなった。
でかくなった与一の腹は底なしで、村ではヒソヒソ声が増えた。
「与一を育てるにゃあ、また口を減らすしかねえべな……」
その囁きは、氷柱(つらら)のように与一の胸に折れた。
翌朝、与一はおっかあを背負って山に入った。
背中は枯れススキのように軽く、息をしているかさえ分からなかった。
業ヶ淵に降ろしたとき、おっかあはふり返り、薄雪のように儚い笑顔を見せた。
三 鬼哭丸(きこくまる)の音
その夜、淵の底から、
「ギャァァ……ギャァァ……」
と、肉を裂くような声が響いた。
与一は布団をかぶって震えた。
(あれは鬼じゃ。俺がおっかあを捨てたから生まれた鬼じゃ)
罪の影は与一を追い立て、ついに村を逃げ出した。
都へ行き、名を立て、強くなれば、この業(ごう)も消えると思ったのだ。
戦での与一は荒れ狂い、「あばれ与一」と呼ばれた。
ついには鬼をも断つといわれる黒い大太刀、**鬼哭丸(きこくまる)**を授かった。
振ればヒュゥと泣く、不気味な太刀だった。
だが錦を着ても、うまい物を喰っても、夜になると隙間風のような声が胸をつらぬいた。
淵の声が、母の影を呼び起こすのだ。
四 帰る影
八年が過ぎたころ、噂が届いた。
「業ヶ淵の鬼が、夜な夜な里へ下りてくる」
与一の顔は雪のように青ざめた。
(あれは俺の影じゃ。俺が始末をつけねばならん)
都を出る前、老僧が与一に言った。
「武士どの、その太刀は鬼を斬る。じゃがな……
ほんとうの鬼は、一番優しい心に棲むもんじゃ。
もし斬る相手がただの『嘆き』なら、その太刀はさらなる災いを呼ぶ」
言葉は霧のように胸にまとわりついたが、与一は振り払って故郷へ向かった。
五 あわれなる鬼
村に戻るや、村人たちは手を合わせて言った。
「与一さま、鬼を退治してくだんせ」
自らの罪を隠し、誰かに斬らせようとする声だった。
霧深い朝、与一は業ヶ淵へ向かった。
竹柵のむこうに、白髪頭の小さな影がうずくまっていた。
「鬼じゃ! やっちくれ!」
後ろから声が飛び、与一は鬼哭丸を抜いた。
その音に影が顔を上げた。
泥に汚れ、目は濁っていたが、その奥に、かすかな灯(ひ)――あの懐かしい色が咲いた。
胸の奥で、何かがドクンと鳴った。
次の瞬間、与一の腕が勝手に動いた。
太刀は弧を描き、霧を裂き、赤い血が細かく散った。
首がころりと転がった。
そこにあったのは――
八年前と変わらぬ、おっかあの顔だった。
与一は崩れ落ちた。
おっかあの懐(ふところ)から、二つのものがこぼれた。
一つは錆びた小刀。与一が都へ行く前、獣除けに渡した守り刀だった。
もう一つは、泥にまみれた一握りの岩茸。
おっかあは鬼になどなっていなかった。
腹をすかせた与一に食わせようと、八年も八年も、淵のまわりを這いずり回って岩茸を探していたのだ。
その静かな愛を、斬り捨てたのは――
ほかならぬ、母の命を喰って育った与一自身と、鬼哭丸だった。
「おっかぁあああああ――!」
叫びは山々に返り、淵に吸われ、いつまでも消えなんだという。
六 淵に残る声
その夜、与一は血のついた太刀を地に突き刺したまま、姿を消した。
谷へ身を投げたとも、ほんとうの鬼になったとも、誰も知らぬ。
それ以来、萱野の村では年寄りを捨てることをやめた。
良心からではない。
(捨てた親の怨みが、子の姿で戻り、太刀を振るうかもしれん……)
その恐ろしさに、村は震えたのだ。
今でも、山奥に夕風の吹くころ、
「……おっかぁ……」
という声が聞こえることがあるという。
それが風の音か、山の嘆きか、誰かの涙の名残りか。
ただ、ひとつの影となって、森の向こうへ淡く消えてゆくだけだ。
※原作「鬼」を修正しました
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=364568