東小金井『ナポリタン』
北村 守通
『ナポリタン』
失敗だった。
ナポリタンは。
味は申し分なかった。子供の時に食べて以来、忘れていたケチャップの酸味が甘さがやわらかく口の中に広がり、そしていたずらっぽく唇のまわりにまとわりついた。
しかし
しかし、しかし、しかし!
私はすっかり忘れていた。
ここは
大学のそばで発達してきた町だった。この店はいわば「学生街の喫茶店」というやつだった。そう。食べ盛りの若い、若い学生たちが相手の喫茶店なのである。だから、写真ではわからなかったが、食べ物は全てキングサイズだった。デカ盛りだった。たのんでもいないのに、デカ盛りだった。三十年前ならば平らげられたかもしれない。しかし、今の私は無力だった。一口進めるごとにケチャップの重みが胃にズジン、ズシンとのしかかかってきた。いったん休むことにした。かなり頑張ったつもりだったが、まだ皿は見えなかった。
「大丈夫か?」
古田が心配そうに覗き込んだ。
「きついねっ!想像以上だわ!」
吹き出る汗をおしぼりでふき取った。ついでに首の後ろも拭った。白いおしぼりが真っ黒になった。
「いや、でもうまいよ!うまいけど、きついよ!」
少し休憩が必要だった。私は水を口にした。ほんのりレモンの香りのする、これまた懐かしい味だった。
「一口試してみる?」
「要らない」
「懐かしい味だよ。」
「要らない」
私は覚悟を決めた。しかし、再開するのはまだ無理だった。もう少し時間が必要だった。
「いやね。」
タバスコを少し振りかけてみた。
「俺ね、タバコやめたのよ。四十の手前くらいで。」
「そういえば苅谷ってタバコ吸う人だったよね。でも、なんでまた?」
「うん、心臓がね。朝起きてすぐの動きはじめにむちゃくちゃ締め付けられるようになって。まぁ、それを十年近くは我慢してたんだけどさ。もうどうしようもなくなって病院行かされたら『冠動脈が全部ふさがってます』ってなって手術よ。即。」
「え!そんなことあったの?大丈夫なの、今は」
「うん、今はこの通りなんだけどね。まぁ腕からカテーテルぶっこんで、ステント入れて膨らまして。そりゃぁもう、それなりに大変だった。で、それを機にタバコは止めた、ってことなんだけどね。」
「う~ん・・・でも体のことがあったとはいえ、よく止められたね。辛くはなかった?」
「いや、それが意外にあっさりと。最初の一週間はなにか調子が狂っちゃってんだけれど、それを越えたら、ね。それよりタバコ止めたらメシがうまくなちゃってさ。ついつい食べ過ぎる様になっちゃったのよ。」
私は自分の腹を軽く撫でた。
「で、パワーアップしちゃったと。」
古田は少しニヤニヤしていた。
トマトジュースにはまだ手をつけていない様だった。
「ところがそれで終わりじゃなかった。」
ナポリタンにもうタバスコをもう一振りしてかき混ぜてみた。これで少しは味が変わるだろう。そうすればまた食が進むかもしれない。
「その後、経過をみるのにCT撮影何回かやっていたら、肺に癌があるのが見つかって。」
古田の顔が一瞬青ざめ、強張ったように見えた。
「癌?」
「肺腺癌とかいうやつだって。」
フォークを回してみた。赤い麺が巻き付いて団子になった。それを口に持っていった。辛さよりも酸っぱさが打ち勝っているように思えた。やはり失敗だった。
「最初は何かの間違いだと思ったよ。」
もう一口試してみた。タバスコはかけない方がよかった。しかし、もう後戻りはできないのであった。失敗とはやり直しがきかないから悔いるしかないのであった。
「タバコ吸っているときだったらいざ知らず、その時はもうタバコをやめてしばらく経っていたからね。それで変に思って信じちゃいないもんだから『セカンドオピニオン聞いてきます』って地方のがんセンターに走ったんだ。そしたら『間違いなく癌です』ってお墨付き貰ってさ。」
古田は黙って私の方を見つめていた。
じっと私の方を見つめていた。
不安そうに見つめていた。
トマトジュースはやはり一口もつけていなかった。