きみたちはそれでも詩人というのか?
室町 礼
SNS検閲、思想の均一化、そして言葉を発した者が
社会的に抹殺される時代。正しさの定義がだれかに
よって狭く歪められている。そのだれかとはだれか。
たとえば清潔で静謐な県政を敷いた兵庫県知事斎藤
元彦はTBSによって一年半ものあいだデマとフェイ
クによって誹謗中傷を受け続けた。それをいわゆる
サヨクリベラル思想家や批評家があと押しをした。
だれ一人異論を発してメディアの暴力を批判する者
はいなかった。その暴力を告発しようとしたのは無
名のyoutuberだけだった。ひとりはもと読売新聞記
者SAKISIRU氏、もうひとりはもと朝日テレビ・ディ
レクターおぎのきんしろう氏だった。もと読売新聞
記者はTBSを放送法違反で裁判所に提訴し、もと朝
日テレビ・ディレクターはTBSの偏向報道を映画化
して社会に訴えるという。二人ともその話しぶりや
顔を見ただけで真面目で素朴で温厚な人柄であるこ
とが伺える。それゆえに報道の世界から弾き出され
た可能性もある。
表面的には安全や寛容の名によって進めながらも実
際には異なる思想や意見をもつものを静かに排除す
る構造が今の日本には形成されている。この国の現
在時点で最大の違和感は議論というものが事実や真
実を探るために行われるのではなく不快な意見を発
した者を排除する儀式へと変わってしまっているこ
とだ。
もっとも憂慮すべきは多くの人々がそれに気づかず、
気づいていても「自分は関係ない」と沈黙を選ぶこ
と。かつては自由と民主主義を謳歌したこの国は今
では言葉とは裏腹に自由をもっとも怖れている。と
くに異なる視点を尊重する姿勢がもはや完全に解体
されてしまった。
公的な物語に疑問をもつこと自体が社会的あるいは
職業的な破滅を招くリスクとして制度化されつつあ
る。それがどれほど理にかなった疑問であっても関
係ない。議論の端緒すらゆるされない文化が今、確
実にこの国を覆っている。かつては文学的であった
文壇、詩壇は小説や詩の出来栄え以前にまず政治的
にサヨクリベラルであるかどうかが点検される。保
守的な考えであればその人物は作品の出来栄え以前
に相手にされない。本来なら文学とはあらゆる意見
や思想を自由に交流交換させる唯一の場であったも
のが党派性に凝り固まって硬直している。こんなと
ころから一体、どんな小説や詩が生まれるというの
だ。作家や詩人がこの新技術社会の「自己統制」と
いうシステムに自ら真っ先にからめとられている。
だれもが話し方に気をつけ、沈黙が身の安全を守る
という世渡りの方法を身につけ、その代わりに思考
する能力を奪われている。頭でっかちがどれほど難
解な詩を書いても無駄だ。そんなものは何の意味も
持たない。世界を見失っているのだから。