愚にもつかない詩の批評理論は勘弁してほしい
室町 礼
前回投稿した『ことばの美はどこに隠れている』という散文は
わたしが他人とは違ってふつうの人のように小説や詩が読めな
い性(さが)のようなものがあることを書いたもので、だれか
を批判するためではありませんでした。
ただし、本文中にネット投稿板で人気のある中田満帆さんやゼ
ンメツさんの小説がわたしには読めないと書いた。
上手いのは上手いし凄いと思うのだけど文体がどこか
で読んだ気がする翻訳調なのが気になるのです。うま
く溶け込んでいるな、自分のものにしているなとは感
心するのですが読めない。内容、思想、技巧がどれほ
どあろうと、どこかで読んだ例のあの文体だと思うと
読めない。
文体に独自性がないと、わたしにしてみればその詩は
「そのひとの詩」ではなく「みんなの詩」なんです。
そしてそういうものからは美を感じないのです。これ
は悪い運命のもとに生まれてきた感性です。
これに対して、やはりネット投稿板で凄い文芸批評家であると
評判の澤あづさという方が腑に落ちない批判を返してきた。
冒頭の作例においても田中宏輔さんの例においても引用
の美を認めているのに、特定の作者の文体(文体はなべ
て引用の集成です)に限って「独自性がなく美しくない」
と断ずるのは不誠実ですが、
「文体はなべて引用の集成です」という根拠もない断定がどこから
来るのか一瞬きょとんとしましたがロラン・バルトが言っていると
いうのです。わたしにしてみれば「はぁ~?」です。バルトちゃん?
誰なんだよ、知らねえよ、呼んでこいよ、説教してやっから、です。
笑。冗談ですが、
名前くらいは知ってますが、どうして日本人てのはバルトなら
バルトを(バルトに限らず誰でもですが)批判的に吸収できないのか?
新興宗教じゃないのだから、まんま受け取って断言してどうすんの?
こんなものを頭から絶対信仰しているのは日本人くらいのものじゃな
いかな? それはともかく澤あづささんは
田中宏輔氏や「目次」には美を認めるのに、同じく「文体の集成であ
る中田満帆さんやゼンメツさんの文体を認めないのは不誠実だ」とい
う。ちゃんと読んでないのですね、わたしの文章を。
そもそもわたしは「目次」を文体の集成とは書いていない。むしろ、
ちぎられた破片である各章が「目次」になることで、逆に、馴れ合った
文体や狎れた感性から解放され、
その無垢なことばを、読者が統合することで新鮮な驚きをもたらすと
書いている。真逆です。
ロラン・バルトの「引用の織物」がどれほど凄いのか知りません。わた
しとは関係がない。しかるに何故おフランスの思想家がそう
いったからといってそれを盲信し、絶対的真実のように振り回すのか?
ロラン・バルトの主観に汲みしないからといって不誠実といわれるのか、
まったく理解の外です。
わたしはロラン・バルトと違って「唯一無二」を信じています。
「タコもイカも鯖も魚だ」という乱暴な意見には同調しません。かって
にカテゴライズするのは勝手だけどタコはタコだし、鯖は鯖です。しか
も同じものなど一つとしてない。同じタコでもみな違います。
それと同じで文体はなべて引用の集成だということが仮にあてはまる部
分があるとしても、だからといって個々の作家の文体を相対化するつも
りはありません。中田満帆さんやゼンメツさんの文体が物真似であって、
それをどうしても読めないわたしはおそらく「唯一無二」を求め
ているからでしょう。すべての人がもつ「唯一無二」を。そしてね、そ
れは頭だけでは解決できないのです。身体性が関与しないと。頭でっか
ちの人たちにいつかわかる日がくればいいのですがね。