図書館の掟。
田中宏輔
人柱法(抜粋)
公共施設は、百人収容単位につき一人の人柱を必要とする。
千人を超える公共施設に関しては、二百人収容単位につき
一人の人柱を必要とする。人柱には死刑囚をあてること。
准公共施設については無脳化した手術用クローンをあてる
こと。人数に関しては、公共施設の場合を適用する。一般
家屋ではホムンクルス一体でよい。
濡れた手で触れてはいけない。
かわいた唇で愛撫するのはよい。
かわいた唇で接吻するのはよい。
しかし
けっして歯を立ててはいけない。
噛んではいけない。
乾いた指が奥所をまさぐり
これをいたぶるのはよしとする。
死者たちは繊細なので
死者たちの悪口を言ってはいけない。
死者たちはつねに耳をそばだてている。
死者と生者とのあいだの接触は
一度にひとりずつが決まりである。
死者のコピーは司書にあらかじめ申し出ておくこと。
死者がたずねられて困ることはたずねてはいけない。
死者の安らぎはこれを最優先に遵守する。
生者と生者との逢引はこれを禁ずる。
死者は生者よりも嫉妬深く傷つきやすいため
隣人が死者の場合
隣人のひざの上に腰掛けないこと。
図書館のなかで
生者が死者に変容するとき
死亡確認は司書にまかせること。
死者は階級別に並べられている。
第一階級は偉大な学者や芸術家たちからなる。
第二階級は大貴族からなる。
第三階級はその他の特権階級の者たち
大商人や高級官吏たち。
第四階級は中流階級の者たち。
第五階級は下層階級の者たち。
太陽の光は入れないこと。
二度とふたたび死者が受粉できなくなるため。
溺れたものを目にした者は
ただちにその場を立ち去ること。
死者の身体を乾かしてから
書架に並べ終わるまで。
死者の貸し出しは二週間。
二週間を過ぎると復活する。
復活は死者の記憶を減ずる。
貸し出しカードは
死者そのものであるため
取り扱いに注意すること。
死者の身体の一部および全体を損なった場合
借り出した本人を死者として供する。
常識的な範囲で死者をいたぶることは許されている。
常識的な範囲でいたぶられることは
死者たちの幸福の一部である。
リクエストは常時受け付けている。
あなたの求める死者の名前を
リクエストカードに記入すれば
その死者が死んだばかりで埋葬がまだの場合
三日以内に納入されることになる。
ただしリクエストされた名前が生者のものである場合
当図書館に納入されるまで
およそ一ヶ月から半年の期間を要するので
急ぎの場合は
リクエストされた利用者の手で搬入されることとする。
書架の死者たちの手首にはナンバーが打たれている。
手首のナンバーを取り替えることはこれを禁ずる。
これらの規約を破るものは貸し出しカードの一枚に加えることとする。
*
ガチャリという手錠の音が部屋のなかに響いた。
死者を坐らせるときには気をつけなければならなかったのだが
ついぼんやりとしてしまっていた。
死者は十九世紀末の北アイルランド出身の若くて美しい女性で
うすくひらいた紫色の唇が言葉にできないくらいに艶めかしかったのだ。
ぼくは彼女の両の手を自分の両の手で包み
彼女の唇に自分の唇を触れさせた。
興奮して噛んだりしないように注意して
ぼくはぼくの上下の唇の先で
彼女の下唇をはさんだ。
冷たい唇がゆっくりひらいていった
ぼくは彼女の唇に耳をくっつけて
彼女の声をきいた。
死者の声はどうしてこんなに魅力的なのだろうか?
声をひそめて語る彼女の言葉を聞いていると
まるで愛撫されているかのようだった。
彼女の息がぼくの耳をくすぐる。
過去が死者によって語られる。
どうして死者の語る過去は
生者の語る現在よりも生き生きとしているのだろうか?
彼女は彼女の死の間際に何が起こったのか教えてくれた。
どうして理不尽な死が彼女を襲ったのか
静かにゆっくりと語ってくれた。
死者の息は冷たい。
冷たい息がぼくの耳にかかる。
目を閉じて彼女の声を聞いていた。
視線を感じて目を開けると
手前の書架と書架の間から
美しい女性の死者の視線を感じた。
一度に一人ずつ
というのが図書館の掟だった。
ぼくはアイルランド人の貴族の娘を立ち上がらせると
彼女を元の書架に連れいき
手錠をはめて
さきほど目にした女性の死者のところに足を運んだ。
彼女の姿はなかった。
この図書館にはたくさんの書架があり
見間違うこともあるのだけれど
さきほど目にした女性がいた本棚のところには
びっしりと死者たちが立ち並んでいた。
二十世紀後半の東南アジア人の死者たちだった。
第一階級の死者たちの棚だった。
それらの老若男女の死者たちのなかには彼女はいなかった。
額の番号を見ても抜けている番号はなかった。
見間違いだったのだろうか?
その死者は東南アジア系の肌の浅黒い
ちょっぴり丸顔の若い女性だった。
後ろにひとのいる気配がしたので振り返った。
彼女だった。
彼女は死者ではなかったのだ。
ぼくの目がみた彼女の瞳は死者のそれではなく
生者のそれだったのだ。
ぼくは視力がそれほどよくなかったので見間違えたのだった。
ぼくは彼女に一目ぼれした。
彼女もそうだった。
ふたりは互いに一目ぼれし合ったのだった。
図書館では生者同士の会話が禁じられている。
死者たちに嫉妬心を呼び起こすからだというのだが
わずかにひらいたカーテンの隙間から
月の光が射し込んでいた。
死者たちの魂を引き剥がす太陽光線をさけるために
その用心のために図書館は夜にしか開いていないのだ。
ぼくたちは周りの人間たちや死者たちには
わからないように目で合図して図書館から出て行こうとした。
するとこの部屋を監視している図書館員にでも気づかれたのだろうか?
ぼくたちの後ろから
ハンドガンを携帯した二人の図書館警備員が追いかけてきた。
ぼくたちはいくつもの書架と書架の間を抜けて走った。
迷路のような部屋のなかを彼らの追跡を振り切るために。
*
だれも借りていないはずなのに
いるはずの場所にはだれもいなかった。
しかし垂れ下がった鎖が
そこに彼女がいたことを告げていた。
そこには二十世紀半ばころに亡くなった
アメリカの女流画家がいるはずだった。
図書館には頻繁に足を運んでいるのだが
いつもだれかが彼女を借り出していた。
きょう来てみて
だれも借り出してはいないことを知って
よろこんでこの書架の前に来たのに
彼女の姿はなかった。
写真で見た彼女は美しかった。
六十代に入ったばかりのころの彼女の写真だった。
きょうこそは彼女の話が聞くことができると思ったのに
司書に訊いても彼女の死体がどこにあるのかわからなかった。
だれかが無断で連れ出したのだろうか?
無断で死者を連れ出したりすると
どんな罰則が科せられるのか
知らない者はいないはずだけど。
ぼくはまだ見ぬ彼女に会いたくて
なんとか探し出せないものかと
書架と書架の間を長い時間さ迷った。
*
死者の身体から
婦人警官が身を離した。
生者との接吻で死者は目が覚めるのだ。
図書館警察管区の一室である。
刑事は容疑者の女の前に死者を坐らせた。
「死者は嘘をつけないとおっしゃるのね?」
「そのとおりです。」
刑事は死者の後ろに立って死者の肩に片手をのせて答えた。
「死者はそのときに信じたことを事実としてしゃべるだけなのですよ。」
「それまたしかりです。」
「では、彼が述べたことは、ただ彼が事実だと思ったことを述べただけじゃないですか?」
「おっしゃるとおりです。」
「彼が信じたがっていたことと嘘とはどう違うの?」
「あなたは死者に感情がないとお思いですか?」
刑事の横にいた女が口を開いた
「この女は何者なの?」
「死者の一人です。」
容疑者の女は目を瞠った。
「自分のほうから口を開いてしゃべる死者なんているの?」
「きわめてめずらしいことでしょうね。」
刑事は容疑者の女の目をじっと見つめた。
「死者に感情なんてあるはずがないわ。」
「あるのですよ。」
「それと死者が嘘をつくかつかないかといったこととどういう関係があるの?」
「死者にもプライドがあり故意に嘘をつくことができないのです。」
「どうどうめぐりだわ。」
刑事が口を挟んだ。
「わたしたちは、あなたが直接彼を殺したとは考えていません。」
「当然だわ。わたしは殺していないもの。」
容疑者の女は死者の首を見た。
死者の首は異様にねじまがっていた。
首を吊った痕がなまなましかった。
「しかし故意に他者を自殺に追い込むことは刑罰の対象になるのですよ。」
「証拠はあるの?」
「死者の証言しかありません。」
「起訴は無理ね。」
「あなたは法律が変わったことをご存じないようですな。
ほかの死者にしか語られない死者の言葉というものがあるのですよ。」
容疑者の女の表情が一変した。
「知らないわ。」
「しかも死者の証言は生者の容疑者の自白に勝るというものです。」
「そんな……。」
「わたしたちのような死者が出現して
より詳しく死者について知られるようになったからよ。」
死んだ女が静かに言った。
そばにいた婦人警官が容疑者の前に坐っている死者の耳元にささやいた。
死者の口から細い消え入りそうな声が漏れる。
死者の言葉に容疑者の女は蒼白になり気を失った。
*
老女の死体はバレーを踊る。
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る。
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る。
老人の死者たちは
近い過去よりも
遠い過去について
好んで思い出す。
老女は幼い頃に習った
バレーを踊っていた。
月の光が
老女の白い肌に反射する。
老女の影が地面を動く。
老女の足が地面をこする。
だれにも見つからない場所で
老女の死体はバレーを踊る。
老女は画家になるよりも
ほんとうはバレリーナになりたかったのだ。
人間はほんとうになりたいものにはならないものなのかもしれない。
老女の死体はバレーを踊る。
月の光のもとで
老女の死体はバレーを踊る。
月の光のもとで
無声映画時代の映画のように
ぎこちない動きだけれど
老女の死体はバレーを踊る。
だれにも見つからない場所に
ひとりの司書が連れ出していたのだ。
*
「それでどちらのウィルスなのですか?」
「記憶転写型です。」
記憶転写型のウィルスに感染した死者は
その記憶がある一人の死者としだいに似てきて
最終的にはまったく同じ記憶を持つことになるのだった。
「記憶欠損型よりも感染力が強くて
性質(たち)が悪いものでしたね。」
司書の表情が一段と暗くなった。
「もう十年以上も前の話ですが
東端の都市の中央図書館が
記憶転写型のウィルスにやられて
瞬く間に滅びました。」
「そうでしたね。
わたしたちの文明は
死者を中心に発展したもので
その死者がわれわれを教え導いてきたのですからね。
死者たちが語る言葉に混乱や間違いがあれば
わたしたちの都市も
わたしたち自体も生き残ることができませんからね。」
「それでどれくらいの死者たちがウィルスに感染していましたか?」
「十名です。」
図書館警察の刑事がその死者たちの写真を
テーブルの上に並べていった。
「そうですか。
それはよかった。
まだ初期段階でしたね。
ウィルス保菌者の生者を特定するのは難しくないでしょう。
さっそく記録に当たりましょう。」
司書はテーブルの上に並べられた写真から目を上げて言った。
「それはすでに手配済みです。
しかし、特定された人物が存在しないのですよ。」
刑事は司書にファイルを手渡した。
「記録に間違いがあったとでもおっしゃるのですか?」
ファイルを持った司書の手に力が入った。
「いえいえ、そうではありません。
記録は存在するのですが
その記録にあった人物は生きてはいないのです。
五年ばかり前に死んでいました。
遺体は火葬されていました。」
司書は目を瞠った。
「それでは
死者の言葉を耳にした生者はいったいだれだったのでしょう?」
刑事は声を落として言った。
「死者解放運動の者たちの仕業か
他の都市の図書館の謀略か
そのどちらかでしょう。」
司書は表情を失った。
「被害が小さなうちに見つかってよかった。」
刑事が立ち上がって部屋から出て行った。
司書は両の手で頭を抱えてテーブルの上を見つめた。
テーブルの上には刑事の置いていったファイルがあった。
司書にはファイルをすぐに開ける勇気がなかった。
*
「おぼえているかしら、あなたも?
わたしたちがまだ学生で若かったころ
この図書館でお互いに一目で恋に堕ちて
図書館警備の者たちに追われて
逃げ回った日のことを。」
「おぼえているとも。
きみといっしょに
この迷宮のような図書館のなかを
二人して書架と書架のあいだを走り抜け
警備の者たちを振りほどこうとして
逃げ回った日のことを。」
「そのあとわたしたちがどうなったか
おぼえてらっしゃるかしら?」
「おぼえているとも。
ぼくの父が政庁の高級役人だったので
二人ともお咎めなしだったじゃないか?
どんな罰が下されるか
二人してあんなにビクビクしていたのに。」
「それからわたしたちは
二度とふたたび
二人いっしょに
この図書館に訪れることはなかったわね。」
「そうだった。
訪れる必要があるときは
かならず別々の日にしていたね。」
「子どもたちのことはおぼえてらっしゃるかしら?」
「ぼくたち二人の子どものことだね。
どうしてそんな聞き方をするんだい?
デイヴィッドとキャサリンがどうかしたのかい?」
「いえ。」
「デイヴィッドはぼくに
キャサリンはきみに似ていたけれど
二人を並べるとやっぱり双子で
瓜二つそっくり同じ顔をしていたね。」
「わたしたちの子どもたち
ただ二人きりの兄妹だった。
でも車の事故で二人とも死んでしまったわね。
わたしもそのときに死にかけたのだけれど。」
女の目から涙が落ちた。
女はしばらくのあいだむせび泣いていた。
死者の視線は女の目に注がれたままだった。
「ごめんなさい。
あなたに聞かせても
あなたはあなたが死んでからの出来事は
何一つ覚えていられないのに。」
死者は新しい知識を長時間記憶できないのだった。
女は立ち上がって部屋を出た。
部屋の外には死者を目覚めさせ
眠らせることのできる死者の女がいた。
この死者は自分の方からしゃべることができ
またウィルスに感染しないのだった。
その死者の女は生者の女と入れ替わりに部屋に入ってきた。
生者の女は隣の部屋に入った。
「たしかにわたしの夫の記憶が転写されています。
赤の他人が夫の記憶を持っているなんて耐えられないわ。」
係官はうなずきながら
記憶転写ウィルスがどれだけ正確に記憶を転写させているか
チェック項目にしるしをつけていった。
*
ウィルスに感染した十人の死者たちが火葬にふされた。
つぎつぎと灰と煙と骨にされていく死者たち。
眠りのさなかに燃え上がる十人の死者たち。
死者たちは肉体的な痛みを感じない。
死者たちは肉体的には苦痛を感じない。
同じ記憶をもった十人の死者たち。
つぎつぎと灰と煙と骨になっていく
同じ記憶を持った十人の死者たち。
*
夫の記憶を
ほんとうの夫の記憶を
白紙状態の死者にコピーするというのだけれど
赤の他人が夫の記憶を持っていることには違いはない。
もう二度と夫のもとには訪れないわ。
いえ、それはもうもとの夫ではないのだから
そんな言い方もおかしいわ。
夫ではないんですもの。
いえいえ違うわ。
記憶は夫のものよ。
わたしにはあのひとの記憶が必要だわ。
わたしにはあのひとの言葉が必要だわ。
二人のあいだの思い出を語り合うことが
わたしの慰め
わたしの唯一の慰めですもの。
あのひとの顔ではないけれど
あのひとの記憶を持った男のところに
夫の思い出を語る赤の他人のところに
きっとわたしはやってくるでしょう。
すぐにとは言わないまでも
遠くない日
いつの日にか
ふたたび
また。
*
「かけたまえ。」
男は図書館長の視線から目を離さずに腰掛けた。
「カタログは、そのなかかね?」
男は持ってきた鞄を図書館長の目の前に置いて開けた。
二つ折りのカタログを手に持って
男は唇の両端を上げて、図書館長に思わし気な視線を投げかけた。
「そのカタログにある死者が、どうして、わたしの興味を強く惹くと考えたのかね?」
「電話でもお話ししたと思いますが、それはあなた自身が詩人だからです。
しかも、この死者の詩人の研究家だからですよ。」
「わたしの研究分野は、きみが思っているほど狭いものではないのだよ。
それはいったい、だれなんだね。その死者の詩人は。」
「あなたは、かねがね、死者たちの言葉だけによる全行引用詩を
たびたび発表なさっていますね。
この死者の詩人は、生前に、あなたがされているようなことをしていたのですよ。」
図書館長は深く腰掛けていた椅子から身を乗り出すようにして
上体を前に傾けた。
「いったい、それは、だれだね?」
図書館長の頭のなかに何人かの詩人の顔が浮かんだ。
男は図書館長の後ろの壁に架けられたエゴン・シーレの絵を見上げた。
「あなたの頭の後ろにあるシーレの絵を
この詩人も、生前は大好きだったようですね。」
図書館長にはすでにその死者がだれであるのか察しがついていたが
男の態度に怒りを覚えて眉間に皺を寄せた。
「もったいぶらないで、はやく教えたまえ。
いまきみを図書館警備の者に言って出て行かせることも出来るのだぞ。
あるいは、きみを直接、図書館警察の身に引き渡すこともできるのだ。
死者はオークションに出品されなければならない。
その法律を破った者に、どんな罪が科せられるか知っているだろう?」
「いや、あなたは、そんなことはしませんよ。
ぜったいにできませんよ。
このカタログをごらんになればね。」
男は図書館長の前にカタログをもって拡げた。
図書館長はため息をついた。
「これは、わたしが研究している日本の二十一世紀の詩人じゃないか?
生前に、わたしのように引用のみからなるポリフォニックな詩を書いていた詩人で
そうだ
それは
すぐれた詩人たちによる
すぐれた作家たちによる朗読大合唱なのだ。
大共同制作作品なのだ。
ウェルギリウス、シェイクスピア、ゲーテといった詩人たち
生きているときに名を上げた詩人たちは死者として図書館にいる。
生きているうちに名を上げなかった詩人たちがいないのだ。
もしも、彼ら彼女らが死者として図書館にいてくれたら
後の世に名を上げた詩人たちが死者として図書館にいてくれたら
彼ら彼女らに、どれだけ美しい詩を聞かせてもらえるか。
それに、もしもできるものなら
わたしが引用した
すべての死者たちが一堂に会した
大朗読コンサートが開催できるかもしれないのだ。
ああ、ロートレアモンが、ディキンスンが
図書館の死者であったらよかったのに。」
図書館長は興奮して一気にしゃべった。
男はカタログを閉じた。
図書館長は目をすえて、男の目を見た。。
「さて、どうなさいますか?」
男は、いかにも小ずるそうな表情をして図書館長の顔を見た。
図書館長は机の引き出しから小切手帳を取り出した。
*
男は図書館長から小切手を受け取った。
死者たちの共同制作作品だって?
たとえすぐれた詩人であろうと
ただ死者たちが持つ記憶を
あの愚かな図書館長がコラージュするだけではないか?
それが過去の詩人たちによる共同制作作品だって?
そんなものが、共同制作作品とかと呼べるようなものなのか?
それに、死者たちによる大朗読コンサートだって?
世界中の図書館が一致協力するとでも言うのか?
つねに敵対している図書館同士が。
ばかばかしい。
あの愚かな図書館長のこころのなかでは
そうなのだろう。
まるで、すぐれた詩人や
すぐれた小説家たちが円陣になって
大傑作を創作している
そんな妄想を
あの愚かな図書館長は
あの頭のなかに描いているのだろう。
そしておれの財布のなかには
あの愚かな図書館長の妄想によって
大金が転がり込んできたのだ。
歩合はそう悪くない。
おれの儲けもけっして小さくはない。
なにしろおれの命がかかっているのだからな。
*
図書館長は椅子の背にもたれて
男が去っていくときの表情を思い出していた。
他人を小ばかにしたようなあの笑みを。
無理解というものが
どれだけ芸術家にとって大切なものか
共感されること以上に
バカにされたり
無視されたりすることが
芸術家にとって
どれだけ大切なことなのか
あの男は知らない。
そう思って
図書館長はほくそ笑んだ。
偶然が生み出す芸術のすばらしさを
いったいどれだけの芸術家がほんとうに知っているのだろうか?
他のすぐれた詩人や作家たちが口にする
体験の記憶や作品のフレーズの豊かさを
そしてまた
芸術家ではないが
自己の体験をよく観察し
そこから人生について意義ある事柄を知り
それから語られるべきことを語ることのできる人々の言葉が
どれだけ豊かであるのかということを。
そういった死者たちを
図書館がどれだけ抱えているのかを
そういった人々や詩人や作家たちによって
つぎつぎと繰り出される言葉たち
それらが編み出す一篇の巨大なタペストリーが
どれだけ美しいものになることか
それを知らないのだ。
わたし以外の者たちは。
図書館長は大きくため息をついて
よりいっそう目を細めて笑った。
そのタペストリーは随所にきらめきを発することだろう。
もちろん
ところどころにある沈み込みは仕方がないであろう。
意味もなさず
映像喚起力もないところは随所にあるであろう。
しかし
ディラン・トマスのすぐれた詩のように
きっとすごいフレーズが顔を覗かせてくれるだろう。
図書館長は机の引き出しから二冊のファイルを取り出した。
上のものには
これまでに図書館に収められた
すぐれた詩人や作家たちの写真がファイルされていた。
下のものには
図書館長が選んでいた
さまざまな階級や職業の死者たちの写真が並んでいた。
貼り付けられた写真の下には
図書館長の細かい字が
びっしりと書き込まれていた。
*
図書館長は自分が翻訳した詩人のメモの訳文に目を通した。
シェイクスピアの自我は彼の作品に残っている。
その影響は後世の人間の自我の形成に寄与している。
とりわけ詩人や作家や批評家に。
たくさんの詩人たちのなかに
たくさんの作家たちのなかに
それぞれのシェイクスピアがいる。
シェイクスピアの自我がさまざまな姿をもって
おびただしい数の人間のなかに収まっているのだ。
その表現者の一部となった
たくさんのシェイクスピアがいるのだ。
この詩人の自我もわたしの一部となっているということだ。
わたしの思考傾向をつかさどる自我の一部となっているのだ。
図書館長は
番号のついたメモの写しをファイルのなかにしまった。
*
図書館長は
詩人のメモのコピーを眺めていた。
作者が作品と同じ深さをもっているとはけっして言えない。
作者が作品と同じ高さをもっているとはけっして言えない。
作者が作品と同じ広さをもっているとはけっして言えない。
図書館長は
コピーのページをめくっていった。
作品には未来がある。
解釈はつねに変化するのだ。
図書館長は
またべつのメモのコピーに目をとめた。
読み手は作者を想像する。
作者は読み手を創造する。
これを逆にすると
ただ陳腐なだけだが
真実はどちらにあるのだろうか?
どちらにもあるのだろうか?
どちらにもないのだろうか?
読み手は作者を創造する。
作者は読み手を想像する。
もしかすると
こうかもしれない。
読み手は作者を創造する。
作者も読み手を創造する。
しかし
つぎのような可能性は
考えるだけでもむなしくなるものだ。
読み手は作者を想像する。
作者も読み手を想像する。
図書館長は
このメモのコピーの上で
左の肘をついて
手のひらにあごをのせた。
手のひらに
今朝剃り損ねたひげがあたって
ジリリと小さな音を立てた。
もう何度も目を通しているコピーであったが
図書館長の
右手の人差し指が
このメモの言葉の上を
ゆっくりとなぞっていった。
*
図書館長の目が
詩人のメモの上を走る。
現代人は
現代人であるがゆえに
個人としてのアイデンティティーが希薄だ。
パソコンメール
携帯電話
携帯メール
人格の浸透が常に行なわれているのだ。
子どもたちの人格の浸透度を考えると
現代こそ
一九八四年の世界であるということがわかる
と考えたこともあるが
いったい人間が
まったき個であったことなどあったのだろうか?
どの時代に?
なかっただろう。
つねに
わたしとは、わたしたちなのだ。
わたしとは、わたしたちなのだった。
図書館長は、詩人のメモのコピーをファイルのなかにしまうと
帰り支度をはじめた。
*
図書館長は、連日
詩人の原稿やメモのコピーに目を通していた。
書かない人間のほうがよく知っている。
並みの書き手はあまり知らず
優れた書き手はほとんど知らず
最良の書き手はまったく知らない。
だから書くことができるのだ。
書かない人間は愛することができる。
愛することについて書く人間は
真に愛したこともなければ
真に愛されたこともないのだ。
作家とは恥ずかしい輩だ。
詩人とは恥ずかしい連中だ。
知らないことを書いているのだから。
図書館長の口からため息がもれた。
*
自ら目を開くことはできないが
感じることはできる。
死者たちは感じることができるのだ
手錠につながれた死者たちは感じていた
生者たちが書架と書架のあいだで
睦言をささやいているのを
恋人たちが互いを思いやり
いたわり合って言葉を紡ぎ出しているのを
死者たちは感じるのだ。
嫉妬を
死者たちは
もはや特定の個人を愛するということができないので
それができる生者たちに嫉妬を覚えるのだ
生者たちの愛を目の当たりに感じること
それが唯一
死者たちのこころを乱すものなのだ
死者たちにこころがあったとしての話だが
というか
こころと呼んでいいものが死者にもあるとしての話なのだが
死者たちの心理学はまだ解析されはじめたばかりであったが
生きている者と同様に自らの意志で目を開くことのできる死者が出現して以来
死者たちについての分析が急速に進展していることは事実であった。
ただそれが
自らの意思では目を開くことのできない死者にも適応できるものなのかどうかは
異論が続出しているのが実態であるが。
生者たちの睦言
そんなものでさえ
死者たちにとっては
致命的なものなのだ。
それが
やがて死者たちが
自分の記憶を語ることができないようになる要因のひとつであった。
生者と生者との逢引はこれを禁ずる。
これは大事な図書館の掟の一つであった。
死者たちは動揺していた
恋人たちの睦言に。
大いなる嫉妬の嵐が
死者たちの胸のなかを吹き荒れていた。
図書館の天蓋の窓ガラスから落ちてくる月の光が冴え冴えと
目をつむって眠ったように死んでいる
死者たちの白い死衣にくるまれた身体を照らし出していた。
*
両手が鎌になっている死者たちが
リングの中央で切りつけ合っている。
それを二十人ばかりの生者たちが見守っている。
生者たちは自分の賭けているほうの死者の名前を
口々に叫んで応援している。
一人の死者が相手の死者に肘を切りつけられて
片腕を落とした。
切断された肘から
白濁した銀色の体液が滴り落ちる。
片腕の死者がよろけたところで
相手の死者が両手の鎌を交差させて
死者の首を挟んで鋏のようにして切断した。
首が落ちて
首のない身体がくず折れる。
一瞬
静寂が訪れる。
その沈黙のベールを破って
扉が開けられた。
「動かないで!
あなたたちを逮捕します。」
最初に部屋になだれ込んだ刑事が言った。
だれも動かなかった。
「全員
死は免れないでしょう。
もちろん
あなたたちには
死者になる権利は剥奪されるでしょう。
死と同時に火葬に付されるでしょう。」
数多くの警察官の手によって
死者たちのゲームを主催していた者や観客たちが
つぎつぎと手錠につながれていった。
*
「それではつぎに弁護側の死者に証言させてください。」
法廷には
弁護側の死者と
検察側の死者が出廷していた。
死者は虚偽を口にすることはないので
裁判で証言者として認められることになっているのである。
証言台のところで
女性の死者に
生者の弁護士助手が近づいて
耳元にささやいた。
女性の死者の口から
ぽつぽつと言葉がもれていく。
マイクがその声をすべて拾っていった。