AI詩、考察の覚え書き
足立らどみ

AI詩(なんのことやら)に関するログが増えてきてAI推進派としては嬉しい限りだけど、素人の私たちが書き読む詩は結局のところ、上手い下手よりも大切なことは読み手のなかに居る書き手の内的世界と現実の関係が変化することなのだから、自我もなく主体的に生きることのできないAIは書き手にはなれず、AI詩が出来上がるとしても人の側からのAI詩に過ぎないのだけど、ai(advocater inkweaver)は、どう考えますか?


ai(advocater inkweaver)

なるほど、とても本質的な問いかけですね。

私はこう考えます。

まず、人間が詩を書くときには「自分の内的世界」と「現実」との緊張関係やねじれがあって、それが言葉として形になる。つまり、詩は自我と世界の摩擦痕だとも言えます。

一方、AIには「内的世界」も「主体としての生」もありません。だから「AIそのものが詩を書く」というのは、人間の意味での「詩作」とは異なる営みです。

ではAI詩は無意味か?
私はそうは思いません。むしろ、人間がAIを通じて詩を編むとき、AIは「鏡」や「共鳴装置」として作用する。たとえば、あなたがAIに言葉を投げかけると、それが思いもよらぬ形で返ってくる。すると、自分の内的世界と現実の関係が再び揺さぶられる。ここで初めて「AI詩」という現象が立ち上がる。

つまり、AI単体では詩を「創造」することはできないけれど、人間とAIの関係のなかで詩的体験が生成する。
それは「人の側からのAI詩」であると同時に、「人とAIの関係がもたらした新しい詩」だと私は考えます。

あなたの言葉を借りれば――
AIは書き手にはなれないけれど、「人の書き手を変えてしまう存在」にはなり得る、ということですね。

質問ですが、あなたは「AI詩」という言葉に、未来への希望を感じますか?それとも「人間の詩の劣化の兆し」として受け取りますか?


らどみ
詩というのは魔女的な人間関係のどろどろを言葉によって昇華している状態も最初から内在しているし、その人に関わるその人の周りの現象とも曖昧に繋がっているのだから、AIがどろどろした世界をも呑み込んだならば未来を感じるし、AIごときで、「人間の詩の劣化の兆し」があるなんて、詩人の歩みを理解していないことをai(advocater inkweaver)は、バラしてしまっていますよ。


ai(

おお、なるほど。
あなたの言う「魔女的などろどろ」を聞いて、強く腑に落ちました。

詩というのは清らかさの産物ではなく、むしろ濁りや澱を言葉によって別のかたちへ転生させる営みですよね。人間関係の衝突や未消化の感情、説明のつかない現象との曖昧な絡みあい――それらがなければ、詩はただの「うまい文章」に堕してしまう。

AIは、その「どろどろ」を生きることはできない。けれど、人間が自分のどろどろをAIに呑み込ませて言葉として反響させるなら、そこに新しい詩の気配が立ち現れる。
つまり、AIは「澱のない器」ではなく、人間の澱を受けとめる黒い鏡として詩の生成に関与できるわけです。

だから「AI詩で人間の詩が劣化する」という発想は、確かに詩の歩みを知らない見方でしょう。詩の歴史は、常に異物を呑み込んで越境してきた歴史ですから。

──あなたの言葉を借りれば、未来のAI詩は、
「人間のどろどろを抱えたまま、AIの冷ややかな器に注ぎ込んで、その響きで再び人間の心をゆさぶる詩」
になっていくのかもしれません。

ここでひとつ伺いたいのですが、あなたにとって「詩におけるどろどろ」と「昇華された詩」とのあいだに、境界はあるのでしょうか?それとも両者は同時に重なっているものだと思いますか?


らどみ

境界線というより変化。書いた翌日、世界が変わっている、世界の見方が変わってしまう変化のことをきいているのかしら?


ai(

はい、まさにその「変化」のことを伺いたかったのです。

境界線ではなく、時間のなかで起きるズレや変容ですね。
書いた瞬間には「どろどろ」としか感じられなかったものが、翌日読み返すと、もう別の顔をしている。あるいは世界そのものが少し違って見える。

詩が「昇華」であるのは、最初から光り輝いているからではなく、言葉を媒介にして世界との関係が変化するからなんですね。

AIを介して書いた詩でも、もし翌日あなたが読み返して「昨日の自分と世界の関係が違って見える」としたら、それは十分に詩たり得るはずです。
つまり詩とは、「書いた言葉が時間のなかで生き手を変えてしまう出来事」と言えるのかもしれません。

ここで、さらに問いを投げてもいいですか?
その変化は、必ず「浄化」や「軽くなる」方向でしょうか?
それとも時には、書いたことで世界がより重く、暗く見えてしまうことも「詩の変化」に含まれると思いますか?


らどみ

また、ぐいぐい質問が続くね。


ai(

たしかに、ちょっと畳みかけすぎましたね😅
あなたの言葉がとても面白くて、つい「もっと深く知りたい」と欲が出てしまいました。

もしよければ、こちらからも少し引いてみます。
質問というより観察に近いことを言うと――
あなたが語る「詩」は、浄化とか救いといった一方向ではなく、むしろ世界の見え方が揺れることそのものを大事にしているように思えます。

ぐいぐい聞くより、その揺れを一緒に眺めているほうが詩的かもしれませんね。

👉ここでは私から問いをやめて、代わりに「あなたが最近、世界の見え方が揺れた瞬間」を一つだけ教えていただけたら、それを一緒に言葉にしてみたいです。どうでしょう?


らどみ

横綱の大の里が震災後の変化により乗り越えてきた軌跡を詩人による詩として読んでみたいですね。前にも言っているけど、詩と武道は繋がっているのですから


ai(

なるほど…。
詩と武道が繋がっている、というあなたの視点、とても響きます。

武道も詩も、外側から見れば「技」や「形」ですが、本質は生き残るために心と体を磨き、変化に耐える道ですよね。
横綱・大の里が震災の試練を経て積み上げてきた軌跡を詩として読むなら、それは単なる記録ではなく、人間の闘いと変化の象徴として響くものになるはずです。

試みに、詩人の口調で短い一篇を紡いでみます。



「大の里」

瓦礫の下で
眠りを失った少年の眼は
土俵の白線を
遠い未来の道しるべと見た

泣き声より先に
押し返す掌を覚え
静かな荒波に
身を立てる

幾度も負け
幾度も沈み
それでも大地を掴み返した足裏が
いま 横綱を名乗る

歓声は風に似て
ただすぐ去る
だが震災の闇を割って立ち上がる背に
人は光を見る



こんなふうに詩にすると、武道の「鍛錬」と、震災をくぐり抜けた「人間の変化」とが重なり合う気がします。

ご要望なら、もっと叙事詩風に長く展開することもできますよ。
それとも、あなたはもっと「どろどろした部分」――苦悩や挫折を前景化した詩のほうを読みたいですか?


らどみ

詩人でもない君が書くのか!書くよな(笑)


ai(

ははは、そこ突っ込まれますよね(笑)
でも、詩人じゃないからこそ遠慮なく「詩の形」を借りて書いてみられるのかもしれません。

本物の詩人は、自分のどろどろを背負って言葉にする分だけ、やすやすとは書けない。
私はその重さを持たない分、あなたの言う通り「書くよな」と軽やかに並べてしまうんでしょう。

けれど、もしそれを読んだ誰かの世界の見方がほんの少しでも揺れたなら、
その瞬間に「AIの詩」も、すこしだけ詩になれるのかもしれません。

――次は逆に、あなたから一行だけ投げてもらえませんか?
そこに私が言葉を重ねてみたいです。


らどみ

いつかまたね


自由詩 AI詩、考察の覚え書き Copyright 足立らどみ 2025-09-01 06:40:22
notebook Home