〇
きのう、友だちと水死体について話していたのだけれど、水死はかなり苦しいから、水死はしたくないなと言ったのだけれど、ヴァージニア・ウルフは入水自殺だった。ジョン・べリマンも入水自殺だった。パウル・ツェランも入水自殺だった。ぼくは入水自殺はしたくないな。
〇
水死体について、というのは、死体の状態について、ということ。ぼくは、鴨川の上流の賀茂川に、牛のふくれあがった死体が、台風のつぎの日に流れて、というか、浮かんでいるのを目にしたことがあるって言ったら、友だちが、人間の水死体もばんばんに膨れ上がってるで、というのだった。
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むかし、外国の台風のつぎの日に、船がひっくり返って、カラフルなTシャツを着た乗客の死体がたくさん海に浮かんでいるのを見て、ホイックニーの絵のようだと思ったことがあると言うと、友だちが、それ、背中からしか見てへんからや、と言った。たしかに、背中が海面の上に
〇
ちょこっと浮いてて、カラフルなTシャツを着たたくさんの水死体がプカプカと浮いていた。台風のつぎの日の晴れの日。海はひたすら青くて、波は陽の光にキラキラと輝いていた。きれいだと思った。まえに見た水難事故での死体の数を数えるようなことはしなかったけれど。とてもきれいだと思った。
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パンは人のためのみにて存在するにあらず。
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機会に弱い。
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うわ~、ひとさまを幸せにしてたんですね。 @taaaako_1124 ずっとチャック全開やった…
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幼稚園のときは、男の子同士でも平気で手をつないでた。
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感情殺戮ペットを買ってきた。さっそく檻に入れて、ぼくの感情を餌にやった。すると、そいつは、ぼくの感情に咬みつき、引き裂き、バラバラにして食い始めた。いろいろな感情を餌にやったけれど、いちばんのごちそうは、ぼくの妬み嫉みの感情だった。
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意図電話。
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きのう映画を見に行った。はじめぜんぜんおもしろくなかったけれど、ところどころで何人かの観客の笑い声が聞こえた。死刑囚が最後の食事を拒むところで何人もの観客の笑い声が聞こえたので、おもしろく思える薬品ワラケルワンを注射した。すると、まったくおもしろくない死刑囚の足だけがぶら下がってるシーンで、ぼくもゲラゲラ声を上げて笑い出した。
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感情分裂。1つの感情が2つの感情に分裂する。2つの感情が4つの感情に分裂する。4つの感情が8つの感情に瞬時に分裂する。1つの感情が2の10乗の1024個の感情に分裂するのに1秒もかからないのだ。きみは、ぼくに感情がないってよく言うけど、じつはありすぎて、ない
〇
ように見えるだけなんだよ。いっぺんに1024個の感情を表情に表してるんだからね。きみに、その1024個の感情を読み取れるわけがないよ。(そして、感情同士が打ち消し合うってことも、ないんだからね。うれしさと悲しみが打ち消し合ってゼロの感情にはならないんだよ。)
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感情濃縮ソフトを買ってきた。さいきん感情が希薄になってきたような気がしていたから。喜怒哀楽をほとんど感じなくて、そろそろ感情を濃くしなきゃと思って。まず感情抽出してそれを感情濃縮ソフトを使って濃縮していった。画面のうえで、ぼくの感情の濃度が濃くなっていった。
〇
形のあるものは崩れる。というか、形成力と非形成力がせめぎ合うことがおもしろい。命のあるものが命を失うことがおもしろい。命のないものが命を得ることがおもしろい。しかし、命のあるものが命を失うことが必然であるように、形のあるものが形をなくすことも、必然ではないの
〇
だろうか。短歌や俳句は、いったいいつまで、あの形を保てるのだろうか。形を残して命を失うことがある。命を失うことなく、形を維持することは可能なのであろうか。もしも、可能であるのならば、何がその形に命を保たせているのであろうか。たいへん興味深い。20年ほどむかし
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のことだけれど、ぼくが下鴨に住んでいたとき、共産党の機関紙に1年半か2年ほど詩を連載していたのだけれど、その当時、左京区の下鴨で、共産党の方々や、その奥様たちが参加なさってた俳句の会に行かせていただいていたのだけれど、ぼくのつくる5・7・5の音節数でつくった
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俳句は、ことごとく、俳句ではないと言われた。俳句は形だと思っていたぼくはびっくりした。いまでも、その驚きは変わらない。いまだに、なぜ、ぼくのものが俳句でないのか、わからないのだ。たとえば、こんなやつ。「蟻の顔 蟻と出合って迷つてゐる」俳句じゃないのかな?
〇
きのう、めっちゃお酒飲んで、すっごいヨッパだったのに、モウ・バウスターンさんの英詩の翻訳のまずいところが4カ所思い出されて直した。訳語がまずいなと思っていたところを、無意識のぼくが直したって感じ。ぼくの無意識は、ぼくの意識よりも賢いのかもしれない。ありゃりゃあ。
〇
でたらめにつくった式で、きれいな角度(笑)が出てきたので、自分でもびっくりした。きのうときょうは、思い切り無意識領域の自我が働いてるのかもしれない。
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ない席を求めよ。
〇
いろいろな人に似ているひと。
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たいへんに興味深いです。 @fortunate_whale 電車で帰宅途中なう。隣にチューバッカみたいなもじゃもじゃが座って、毛が痛いのですがどうやって回避するべきか。
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いろいろな髪形のひとに魅かれます。むかし付き合ってた青年が短髪のおデブさんだったのですが、10年後に会ったら、ソバージュのおデブさんになっていたので、びっくりしつつも、ああ、かわいいなと思ったことがあります。髪形で顔の印象ぜんぜん違いますけれど。 @fortunate_whale
〇
コーちゃん、ジュンちゃんのことだよ、笑。
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それでP・D・ジェイムズや、ヴァージニア・ウルフなどのイギリス人の女性作家の情景描写がすごいことが納得できました。 @fortunate_whale 女の人は男より子どもの異変に気付くために視覚細胞が男の人より多かったり、嗅覚が優れているんす。だから逆に、細かいことうだうだ言うのです。
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襲われませんように! @taaaako_1124 いまからノンケをつれてニチョへ。
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ぼくの書く詩は、ほとんど血と骨と肉だけでできたものだと思うのだけれど、多くの詩人の詩は、やたらと服を着飾って、帽子をいくつも被ってるものだから、顔だけじゃなくて、手の甲さえもチラとも見えない。LGBTIQの詩人たちの英詩は、そんなことなくて、とってもなナチュラル。
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靴下のようなひと。一日じゅう履いてた。
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ブサイクなぼくが、ブサイクじゃないと言う権利があるように、カッコいいひとが、カッコよくないと言う権利があるのかどうか。一日がエンジョイしている。エンジョイが一日していると言ってもよい。そろそろスープはコールドにしてほしい。その皿のなかの景色。景色のなかの皿。
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ぼくはむかし、吸血鬼になりたいと思った。夜ずっと遊んでいられるから。ぼくはむかし、クレオパトラになりたいと思った。絨毯にまかれて、ぱっとほられて、くるくる転げまわりたかったから。さんざんな夏だった。恋人からは平手打ち。あまりの表情の変わりように、おしっこ、ちびってしまった。
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いま日知庵から帰った。ヨッパである。詩は悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。人生もまた、悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。人間もまた悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。えいちゃんに、アムロ・ナミエという名前の歌手のCDを渡された。
〇
この歌、ええねん。といって、「GET MYSELF BACK AGAIN」という曲の歌詞を読ませられる。ひさしぶりに涙が落ちた。人間はときどき泣かなあかんなあと思ってたけど、じっさい泣いたらなんか負けたような気がする。なにに負けるのか、ようわからんけど。
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きのうは、つくづく、人間であることは、悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであると思った。
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詩においては、形もまた言葉なのである。余白が言葉であるように。
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詩は、悲しい楽しみであり、楽しい悲しみである。生きていることが悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであるように。人間自体が悲しい楽しみであり、楽しい悲しみであるように。
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「ほんとうの嘘つきは隠さない。」 これは、えいちゃんの同級生の山口くんの言葉だったかな。言えてるかもにょ。
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大岡 信さんに、91年度のユリイカの新人に選んでいただいたのですが、東京でお会いしたときに、「そろそろ天才があらわれる頃だと思っていました。わたしが選者でなかったら、あなたの詩は選ばれることはなかったでしょう。」と言われました。
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「あなたの言葉はやさしいけれど、内容がむずかしい。」とも言われましたが、ぼくが、第二詩集の詩集『The Wasteless Land.』をお送りしたら、絶縁状みたいな葉書きが送られてきて、全否定されました。それ以来、詩集をお送りしてもご返信はありません。
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こういう何気ないひと言が、詩への架橋なのです。このひと言、ぼくの詩に使っていいですか? @taaaako_1124 最近、カシューナッツばかり食べてる。
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そいえば、前彼とはじめて出会ったとき、ふたりともハーフ・パンツだった。バイクを降りて、手を振って笑ってた。もう10年近くもまえの光景だけど。そのときいっしょに入ったサテンも、もうなくなってる。
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ウィンナーの缶詰を子どものときによく食べた。51才のぼくの子どものときのことだから、40年ほどまえのことだろうか。パパが好きだったのだ。塩味のウィンナーで、子どもの人差し指、いまのぼくの指だったら小指ほどの大きさだろうか。両端が剥き出しで、薄い皮がタバコの
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巻紙のように、その子どもの人差し指のようなウィンナーを包んでいたのだった。いくつくらい入っていたのだろうか。せいぜい10個ほどだと思うのだが、そのウィンナーを食事のときに食べた記憶はない。ぼくの家では、他人も食卓につくことがあったので、食事の用意はお手伝いの
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おばさんとママの2人でやっていたはずで、そんなものが出てくるわけがなかった。しかし、そのウィンナーの味はおぼえているし、パパが好きだったこともおぼえているのだった。しかし、記憶の欠落について思いを馳せても仕方がないし、そもそも書こうとしていたことと、そのウィ
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ンナーの味や、いつ食べたのかとかいったこととは関係がなかったのだから。書きたかったのは、そのウィンナーの缶詰の開け方なのだった。トライアングルのような形をした、指を押しあてるところと、その柄の先に、缶詰の側面上方にDの形に出たところをひっかけて回さす細い穴が
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ついていて、それを缶詰の側面の形に合わせて、くるくると巻き取ると、缶詰のふたが開くのであった。さいごに残った5ミリほどのところで、缶詰の上部をパカッと裏返して開けるのだった。黒板に数式を書いていた教師の身体が突然とまった。生徒たちの指もとまった。教師は静かに
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椅子に腰を下ろした。教師が側頭部のDにオープナーの端をひっかけると、くりくりと頭の形に合わせてオープナーに頭皮と頭蓋骨の一部を巻きつけていった。生徒たちも全員、教師と同じようにオープナーを使って頭皮と頭蓋骨の一部をオープナーに巻きつけて
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いった。パカッという音をさせて、頭頂部を切り離すと、教師はそれを教卓の上に置いた。生徒たちも、それぞれ、自分たちの机の上に、自分たちの頭頂部を外しておいていった。ゲコ。ゲコゲコ。ゲコ。ゲコゲコ。生徒たちの頭の池のなかで、蛙たちが鳴きはじめる。ゲコ。ゲコゲコ。ピョンっと
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飛び跳ねて、生徒の頭の池と池のあいだを飛び移る蛙たち。ゲコ。ゲコゲコ。ゲコ。ゲコゲコ。あのウィンナーをいつ食べたのかは思い出せないのだけれど、教室じゅうで、蛙たちが飛び跳ねて鳴いていたのはおぼえている。教師が自分の頭頂部をはめ直すと、生徒たちも自分たちの頭頂部をはめ直して
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いった。遅刻してきた生徒が教室の扉をあけると、一匹の蛙がゲコゲコ鳴きながら教室の外に出ていった。遅刻してきた生徒が、遅刻してきた理由を教師に告げて、自分の席に坐った。隣の席の男の子の頭の池を覗くと、そこには、いるはずのその男の子はいなくて、濁った池の水がある
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だけだった。チャイムが鳴っても、その男の子の頭の池には、その男の子は戻らなかった。それから何年もして、ぼくが高校生くらいのときに、賀茂川の河川敷で恋人と散歩してたら、蛙がゲコゲコ鳴きながら目のまえを横切って、川のなかに、ボチャンッと音を立てて跳び込んだ。風のなかに、
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川のにおいと混じって、あの缶詰のウィンナーのにおいがしたような気がした。恋人は、ぼくの顔を見て微笑んだ。「どしたの?」ぼくは首を振った。「べつに。」ぼくは恋人の手をはなして、両腕をかかげて背伸びした。「帰ろう。」と言って、ぼくは恋人の手をとって歩いた。
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バス停で別れるとき、ぼくはすこし気恥ずかしい思いをしながら、恋人がタラップを駆け上がるのを見ていた。なぜ、ちょっとしたことでも照れくさく思うのだろう。ちょっとしたことだからだろうか。
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「ちょっと、すいません。堀川病院へは、どう行ったらいいですか?」ハーフパンツ姿の青年に声をかけられた。堀川五条のブックオフから出てきたばかりのぼくは、さいしょ何を訊かれたのかよくわからなかった。青年は、さま~ずの三村のような感じだった。ぼくが目を
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大きくあけると、青年は、自分の携帯の画面をぼくに見せながら、つぎつぎとメールを見せていった。3つ目か4つ目のメールを見て、ぼくにも事情が呑み込めた。「堀川病院の角で待ち合わせをしてるんです。」たしかに、危険なゲームを楽しむ年齢だと思いはしたが、一方、そんな
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ことをせずとも、そこそこの女性なら簡単に手に入る容貌をしているのに、などと思ったのだった。その話を日知庵で、えいちゃんに言った。「なんで、あっちゃんに声かけたんやろか?」、「さあ、おっさんやから、恥ずかしくないと思たんちゃうかな。」
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電車の窓の外の景色に目を走らせた。近くは素早く動くのに、遠くはゆっくりとしか動かないのだと思った。理由はわからなかったけれど、いまぼくが乗っている電車がいちばん速く動いていて、この電車からもっとも遠いところはとまっているのだと思った。
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これからお風呂に。それから塾。帰りは日知庵に。富士山に行かれる方たちを見送りに。雨が降りそうだ。えんえんと、ノーナ・リーブズの『CHOICE』を流している。ときどき蛙のようにゲコゲコ鳴いて飛び跳ねてやろうかと、ふと考えたけど、体重が重いから、すぐに膝を傷めるやろうね、笑。
〇
ありがとう。楽しんでもらえて、うれしい。 @youquigo 田中宏輔さんの詩集評、おもしろい。一冊の詩集を、一ヶ月の日付入りで、読み手の生活や感覚の起伏そのまま日記みたいに詩を読んでゆく書き方が新鮮。骨おりダンスっvol. 9
http://t.co/r77KLdyW
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友だちが気落ちしてるらしい。いつでも話を聞くからねとメッセージしておいた。そだ。友だちの役に立たないと、友だちじゃないよね。気落ちしてるなら、いくらでも、ぼくを使ってほしいと思う。こんどの日曜日、ぼくは好きな子になにがしてあげられるんだろう。
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1個の粘土と1個の粘土を合わせて1個の粘土にして見せたら、小さな子どもの目には、1+1=1 に見えるかなと思います。1+1=3 は、いますぐ思いつかないけど、化学反応であると思います。2つの物質が3つの物質になることも、そう珍しい化学反応ではないと思います。
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引用詩をつくるときにも、感覚的なよろこびと、知的なよろこびがあった。単純に分類すると、個別的な経験の把握と、統合的な知の再編成である。英詩翻訳においても、この両方のことが、ぼくの身に起こる。とりわけ、英詩翻訳は、ぼくの知らない単語や熟語や構文があるせいで、ぼくに新しい知がもたらされるのであるが、
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さらに彼らが詩句において知と格闘した跡をきっちりと追うことによって、それまでの知識との統合といった現象が起こるのだけれど、同時に、ぼくとは違う体験と言語経験を経てきた詩人たちの感覚の痕跡を追うことによって、ぼくが、ぼくの知らなかった新しい感覚を感じとれたりすることもあるのである。
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とりわけ、訳するのが困難であったものが、ある瞬間に、すべての光景を同時に眺めわたすことができるような感覚を得られたときには、感覚的にも、また知的にも、十分な満足感を与えられるものである。こんかい訳したものが、その典型であろうか。つぎの『Oracle』では、これが3つ目の
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英詩翻訳になるわけだが、3つともぜんぜん違う感じのもので、ぼくの翻訳の文体もまったく違うものであり、つぎの締めきりまで、まだ3週間あるので、まだまだ翻訳するだろうけれど、すでに、これら3つの英詩の翻訳だけでも十分にひと月分の文学的営為に値すると思われる。
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BGMは、ビリー・ジョエルの「イタリアン・レストランにて」。ノブユキとの思い出の曲だ。つまらないことでも笑っていた。べつに、なにがあったってわけでもないのに、いっしょにいるだけで楽しかった。そのつまらないことの輝きを、そのつまらないことの輝きの意味をいま
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のぼくは、とても大切な思い出として見ている。たぶん、どのひとの人生も、そんな輝きでいっぱいだ。そんな輝きの意味でいっぱいだ。英詩翻訳で、それがとてもよくわかる。他者の経験と思索を通して、つまらないことの輝きの意味が。つまらないことの意味の輝きが。
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いま日知庵から帰ってきた。満席に近くって、半分は外国のひとたちだった。きょう、持ってた英詩を読んでもらったら、わからないと言われた。英語に堪能な外国の方にわからないものを、ぼくが翻訳するっていうのは無理があるなあと思いつつ、おもしろいと思った。絶対やる。
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このあいだ、元彼としゃべっていて、いま好きな子がいるんだけどと言ったら、「短髪?」と訊くから「ちがうけど。」と言うと、「短髪でないと、いけへんわ。」と言われ、「それは、きみ。ぼくは、髪型やなくて、顔と雰囲気なんやから。」と言った。フェチな元彼やった。
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電話をかける方も、電話を受ける方も、両方とも同じ音だったりして。@moririnmonson 昨日ホテル泊まった時に初めて知ったんだけど、有線に「アリバイ」っチャンネルがあって、車の騒音とかがずっと流れてるの。部屋にいながら「今、外です。」って言えるのね。
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いま、元彼の日記見たら、「蝉が、怖いです(^-^)/昔はさわれたのに 一週間の命だから楽しく泣きやがれ(^-^)/ 悲しく鳴くから涙やで」と書いてあって、こんな言葉を書く感性があったんやと思って、しばし、感慨にふける。恋は麻薬って言うけれど……。
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人生って、ほんとうは眼鏡など必要ないのに、つねに度の違う眼鏡をかけさせられてるって感じでしょうか。@kayabonbon 人生は近くで見たら悲劇、遠くから見たら喜劇、だっけ?
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ぼくの全行引用詩は、フロベールの完成されなかった『ブヴァールとペキュシェ』の終わりが、延々と引用が書き並べられていくはずだったという記述を、文学全集の解説で読んだことがきっかけでした。じゃあ、ぼくがやろう、と。@ana_ta_des フロベール論を単行本で読める筋肉を鍛えるための夏…!
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そういえば、「田中宏輔の詩集評3」をほっぽらかしてた。倉田良成さんの本だったが、たしか、序詩について、ワーズワースとの連関性を感じて、ワーズワースの詩の引用からはじめたのだったが、そのあとに芭蕉の句を2つ引用してつづけることにする。
〇
「命二つの中に生きたる桜かな」と「さまざまの事おもひ出す桜かな」の二句である。パースペクティヴがぜんぜん違っていて、まったく異なるフェイズの観想を持たされたのだが、この二つの句が示唆するアスペクトで、文学表現のほとんどが書き尽くされるような気がしたのだ。
〇
ここで、与謝野晶子の「わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ」を、この芭蕉の「命二つの中に生きたる桜かな」と「さまざまの事おもひ出す桜かな」の二句に結びつけることは、それほど難しいことではないであろう。与謝野晶子の歌のあとごととして、芭蕉の二つの句を
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みればよいのだ。そうみてやると、物語がはじまる。物語になる。というよりも、ことあるごとに、そうみてやると、ひとやものとの関わりについてより観察の目を拡げられるような気がする。これらの与謝野晶子の一つの歌と芭蕉の二つの句を、おぼえておくことにしよう。
〇
ああ、もちろん、これらの一つの歌と二つの句とともに、エリス・ピーターズの『聖ペテロ祭の殺人』の第一日の2にある「稲妻は気まぐれに落ちるもの、」(大出 健訳)という言葉もつけ加えておぼえておくことにしよう。エリス・ピーターズの『聖ペテロ祭の殺人』の祭りのあとの
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1には、「知恵は常に懐疑と共にある」(大出 健訳)といった言葉もあり、これもまた、ぼくがしじゅう考えていることであるが、このことも、あらためて胸に刻みつけておくことにしよう。
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クスリのんで、『クライム・マシン』のつづきを読んで寝る。きょうは、もと恋人にハグしたら、ハグやったら、いつでもええで、と言われて、キッスしようとしたら、キスはぜったいあかんで、と言われた。なんでやねん、と思いつつ、ハグやったらええんやな、と念を押しておいた。
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ぼくが2年ほどまえここに書いたのは、ここのマンションのぼくの部屋がある階で、ガス自殺(未遂?)があって、消防隊員たちが、ぼくのいる階の人間にドアを開けないで部屋に入ったまま出てこないでくれと言いにきたときに、そのときのことをツイッターで書いたのだけれど、あれは「実況中継詩」かな。
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20年ほどむかし、自販機に、コーヒー・スカッシュという名前の炭酸ソーダで割ったコーヒーが売ってありました。飲んですぐに捨てました。 @yamadaryouta コーヒーが飲みたいという思いと炭酸が飲みたいという思いが相まってうっかりエスプレッソーダを買いそうになるも思いとどまった。
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道路に停まっている車がトランプのカードのようにめくれていく。
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おじいさんも、猿も、自転車も、庭も、温泉につかっている。
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きのう、ボルヘスの『汚辱の世界史』を読みながら寝た。きょうも、そのつづきを読みながら寝ようと思う。先週、恋人に、ちょっとと言われて、なにって言ったら、ハサミかして、と言われて、ハサミを渡したら、襟元のちょこっと残ってた毛を切ってもらった。やさしいなあ。
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あるとき、数学者のヤコービは、インタビューで、「あなたの成功の秘訣は何ですか?」と訊かれて、こう答えたと言う。「すべてを逆にすること。」。
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生命はその存在自体が転倒している。意識も倒錯的だ。ゲイであるぼくは、もう180度転倒して、いま一度倒錯的だ。つまり、この無生物が主体の宇宙にあって、ぼくの生命をぼくで終わらせ、またたく間に星になるぼくは、ストレートよりはるかにまっとうなのだ。違うかな?
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「夢でびっくりすることがあるよね。自分で夢をつくってるのにね。」って言うと、シンちゃんが、「あんた、自分が意識している範囲だけが自分やないんやで。」と言った。「すごい深いこと言うんやな。」って言うと、「だって、自分の知らん自分がたくさんいるやろ。」との返事。
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友だちの娘たち3人といっしょに食べたタコ焼きや焼きそば。何年も会ってなかったので、娘たちは、ぼくのことをおぼえてなかった。でも、5歳の子(双子ちゃんの一人)は、すぐに甘えてくれて、「ダッコ」といって抱きついてくれた。むかし書いた●詩を思い出した。
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クスリがきょうの分で終わり。ちょっと強いのかな。追加された新しいクスリは強烈で、4年か5年ぶりに眠たくなった。というか、しじゅう、眠気がする。しかし、眠気など二度と訪れることがないと思ってたので、同じ処方箋を頼もうかなと思っている。悪夢も見るんだけど。
〇
しかし、お金を払って悪夢のような映画を見るひともいるのだから、ぼくのように無料で悪夢を見るのは、お得なのかもしれない。あ、無料じゃないか。でも、考えたこともない情景がでてくるのだ。夢をつくっているのは、潜在自我のぼくなのだろうから、ぼくが知らないぼくのことを知れる機会でもある。
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けっきょく、ぼくは詩人としては、だれにもおぼえてもらえないようなマイナーな詩人だと思うのだけれど、英詩の翻訳家としては、いくらかのひとの記憶には残るように残る人生のすべての時間を費やすことにした。寿命が尽きるまで、LGBTIQの詩人たちの英詩を翻訳していくつもり。
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詩は音で、音楽であるべきものだと思っている。意味などどうでもよいとも思っている。音のなめらかさは情動を運ぶもっともよい船である。音は映像を大きくする力があると、だれかの言葉にあった。音が情動を、また映像を、読み手のこころの岸辺で引き上げさせるのである。
〇
そうだ。えいちゃんに言われたんだけど、ぼくが訳してる詩って、まるで、あっちゃんが書いた詩みたいやなって。まあ、口調が、ぼくの口調だしねって返事したけど、きょう選んだゲイの詩人の英詩って、ぼくも感じたことのあること書いてたもんね。かならず失うもの、若さ。
〇
で、失うことから見えてくるものがあるってこと。これは、自分が若さのなかにいるときには、けっしてわからなかったことやね。愛するあまりに傷つくことに耐えられなくて、愛することをやめるということ。なんという弱さだろうね。その弱さがいまの自分をつくったにせよ。
〇
湯になる。まっすぐな湯になる。長時間つかっていると、湯が、ときどき、ぼくになる。ふと気がつくと、ぼくが湯になって、裸のぼくの身体を抱いていたりする。あ、違う、違う、と思うと、ぼくは、ぼくのなかで目がさめて、ぼくのほうが湯を抱いていることに思い至るのであった。
〇
注射器を見つめていると、しゅるしゅると、ぼくが、注射器の円筒形のガラスの壁面に噴き上がってくるのが見える。ぼくは、ぼくの狭い血管のなかから解放されて、より広い大きな注射器の円筒形のガラスのなかにひろがり展開する。その喜びといったら、なににたとえられるだろう。
〇
夢をみてまどろんでいたのに、よくその夢を忘れてしまう。まどろみから抜け出してすぐのことだというのに、どんな夢をみていたのか、ぜんぜん思い出せないのだ。夢をみているときと起きているときとを合わせると、ぼくのすべての時間になるのだろうか。夢をみているぼくと、起きているぼくとが同じぼくかどうかわからないけれど。
〇
さっきまでうつらうつらしていた。うつらうつら夢を見ていた。ぼくは駅の構内を行き来する人たちの姿を真上から眺めていた。ぼくはなんだったんだろう。人間が見る位置から見てはいなかったような気がする。夢では人間ではないものになることができるのだろうか。夢でなくても?
〇
太い後悔というものがあるとしたら、細い後悔というものもあるだろう。後悔に形状があるということだ。あるいは、形状を与えるということだ。後悔に粒子があるとしたら、それが凝縮して固体状態のものであるときに形状があるということになる。液体状態の後悔には形状がないで
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あろう。気体状態の後悔にも形状がないであろう。気体状態の後悔を状態変化させて、液体状態や固体状態にしてみる。ふつうの粒子と同じように状態変化することをたしかめる。後悔の凝固点と沸点を計測する。後悔が、ぼくの状態変化を観察する。ぼくの凝固点と沸点を計測する。
〇
後悔が、ぼくのことをじっくりと観察する。ぼくがしたこと、ぼくがしなかったことで、ぼくのポテンシャル・エネルギーがどれだけ変化したかを計測する。後悔が、中休みするために、実験室を出て行く。ビーカーのなかで、徐々に冷えて固まっていくぼく。いくつものビーカー。
〇
ビーカーのなかで、徐々に冷えて固まっていく、いくつものぼく。後悔が、実験室に戻ってきた。ぼくのなかに差し込まれた温度計の目盛りを見る後悔。ぼくの入っているビーカーの外側にある水の温度の目盛りを見る後悔。いくつものビーカーのなかにある、異なるぼくのしたこと。
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いくつものビーカーのなかにある、異なるぼくのしなかったこと。ぼくのしたことと、しなかったことの風景が、実験器具のなかに展開される。実験室が、異なるぼくのしたことや、異なるぼくのしなかったことでいっぱいになる。
〇
期待状態の後悔。
〇
ちゃんこつながり。ちゃんこのようにつながること。ちゃんこ鍋つながり。ちゃんこ鍋のようにつながること。ちゃんこつながりと、ちゃんこ鍋つながりでは、その意味概念が異なるのだが、双方ともに、理論的には、無限の長さでつながるはずである。限界がないのである。
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アンチ汁。汁の反対。あるいは、汁に反対すること。汁は、よけいである。はしっこが切れない。昆虫の場合は、繁殖率がすさまじい。けなげな汁もいるにはいるが、見逃してはいけない。汁にもふとホクロがあったりする。見分けられるのだ。すべてのホクロは蒸発する機会を狙っている。
〇
ぼくの脳は、実験マウスの切断された脳に侵されたい。さまざまな色に染められた小動物の実験体の切断された脳に侵されたい。無数の切断された手と足と頭になりたい、ぼくの脳の風景。野菜とか樹木とか河川とか、ぼくの脳の風景のなかにはなくて、ただ切断された手と足と頭でありたい。
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いっしょに、いちゃいちゃすればいい。 @cap184946 三列シートなのに隣のカップルがイチャイチャしてるの。しにたい
〇
けっきょく、一睡もしていない。クスリも効かないくらい脳が覚醒していたのだろう。英詩翻訳の訳文の手直しで、ちょこっといじっただけだけど、訳文がすっかりよくなったということからくる幸福感からだろうか。たぶん、そうなのだろう。もしかしたら、ぼくは少し狂って
〇
いるのかもしれない。まあ、すこし狂っているということは、まったく狂っていないということだけれども。
〇
きみの天国がほしいと、ぼくは言う。きみは、ぼくの天国がほしいと言う。もしも、きみが、ぼくに、きみの天国をくれたら、ぼくは、きみの天国を食べちゃうだろう。もしも、ぼくが、きみに、ぼくの天国をあげたら、きみは、ぼくの天国を食べちゃうだろう。ぼくの口は、きみの天国
〇
を味わうだろう。ぼくの口が、きみの天国を食べると、きみの天国は痛がるだろうか。きみの口が、ぼくの天国を食べると、ぼくの天国は痛がるだろうか。きみの天国は、ぼくをかじる。ぼくの天国は、きみをかじる。ぼくたちの天国は、ぼくたちをかじる。ぼくたちの唇をかじる。
〇
ぼくたちの指をかじる。ぼくたちの耳をかjる。ぼくたちの鼻をかじる。ぼくたちの胸をかじる。ぼくたちのセックスをかじる。ぼくたちのこころをかじる。そうして、ぼくたちは、少しずつ天国になる。天国は、ぼくたちのキッスをまぜる。ぼくたちのセックスをまぜる。そうして、
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ぼくたちは、純粋な天国になっていく。重量が、純粋な重力となるように。意味が純粋な言葉になるように。神が純粋な人間となるように。純粋な天国。純粋なキッス。純粋なセックス。天国そのものの意味。キッスそのものの意味。セックスそのものの意味。天国はぼくたちをかじる。
〇
ぼくたちの痛みが、ぼくたちを天国に変える。ぼくたちの痛みが、天国をぼくたちに変える。これ以外のことは何も言えない。ぼくの口は、きみの天国がほしいと言う。きみの口は、ぼくの天国がほしいと言う。ぼくたちの天国は、ぼくたちの痛みを咀嚼して、ぼくたちを天国に変える。
〇
ひゃ~、誤字です、笑。 @sechanco いいな。耳をかjるの、「j」とかしんせん♪
〇
「じ」と「j」が、ほぼ鏡像状態になっているのですね。 @sechanco
〇
これから納豆を買いに近所のフレスコに行く。しかし、この近所のフレスコがぼくのところにくれば、ぼくが行くことはないわけだ。納豆がぼくを買えばいいわけだし。フレスコの棚に、ぽこぽこと、ぼくとぼくが並んでいくというわけだ。おもしろい顔だろ。生えてきたんだ。
〇
記念に、と言って、ぼくの頭を肘のあいだにはさんで突き出す。お客さんたちが、ペコペコとぼくの頭を叩く。ぼくの頭がポコポコと鳴る。なかなかいい音をしていますな。手と足を十字に組みながら、何人ものホームズが転がっていく。前から後ろから縦から横から斜めから、何人ものワトスン博士がパコパコ追いかけていく。
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重量は、重力のメッセージである。言葉は、意味のメッセージである。人間は、神のメッセージである。メッセージとは、なんだろう。逆かな。重力は、重量のメッセージである。意味は、言葉のメッセージである。神は、人間のメッセージである。
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なんで眠れへんのやろうと思って、電気つけたら、横にクスリが。のみ忘れてた。
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はじめに句読点があった。句読点には意味がなかった。そこで、句読点は言葉をつくった。言葉には意味がなかった。そこで、言葉は事物をつくった。事物には時間や場所や出来事がなかった。そこで事物は時間や場所や出来事をつくった。これが、あらゆるものが句読点になってしまう理由である。
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句点は貫通することを意味し、読点は切りつけることを意味する。私たちは、句読点をもって、完璧な意味に穴をあけ、切りつけ、不完全な意味にまで分解する。なぜなら、完璧な意味にはがまんができないからである。句読点のない改行詩や句読点のない散文は、異端者による作り物である。
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異端者たちは、句読点のない改行詩や句読点のない散文に異常に興奮し、いくら禁じられ罰せられても、いっこうに句読点を用いないのである。異端者のなかには、一文字分の空白をあける者もいるのだが、ごくわずかな割合である。官憲のなかにも、異端に同調する者がいると言われている。
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したがって、法律の文章が完璧でないのも、句読点があるからなのである。句読点のない法律の文章が存在するという伝説があるが、古来より完璧な法律を望む声は皆無であり、不完全な法律のもとでしか生活を営むことを欲しない国民は、穴だらけで切り傷だらけの法律のもとで暮らしている。
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あらゆる風景が句読点でできており、あらゆる人間が句読点であった。句読点は無意味な句読点で互いに語り合い、無意味な句読点でできた家に住み、無意味な句読点とともに暮らしているのであった。句読点だけの世界では、読む物だけではなく、あらゆる時間も場所も出来事も無意味な句読点でできているのであった。
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句読点だけでできた新聞を読むと、毎日のように、読点で切りつけたという話や、句点を転がしたといった話ばかりが載っている。読点だけでできた指でページをめくる。句点だけでできたページに目を落とす。句読点だけでできたページを読む。
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句読点の役目 : 休止や停止が状態を維持し、運動を促すのである。
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クリーニング屋のまえで、自転車に乗った青年と、いや、青年が乗ってた自転車にぶつかりそうになったのだけれど、考え事をしながら歩いてたわたしのほうが悪いと思ったのだが、179センチ87キロの体格のわたしだからだろうか、むこうのほうがあやまりの言葉を口にして、頭を下げて
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走り去っていった。わたしは、自然食品店の手前のマンションで、ふと立ち止まった。そうだ。わたしたち人間もまた、句読点なのだと思ったのである。動き回る句読点である。動き回り、話しかける句読点である。沈黙し、立ち止まり、耳を澄ます句読点である。街の景色のなかで動き回る
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句読点である。と、そう考えると、なんか、おかしくなって、吹き出してしまった。わたしたちは、動き回る句読点である。わたしたちは、動きまわり、立ち止まる、さまざまな長さをもつ休止であり、空白であり、息であり、間(ま)であり、さまざまな意味をもつ句読点である。
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感嘆符の形や、疑問符の形でひとびとが立っていたりする、街の風景。
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P・D・ジェイムズが、散文について、「句読点がなければ読めないのではないか」と書いていたが、たしかにそうかもしれない。彼女は詩については、「空白がなければ、詩は詩として読めないのではないか」とも書いていたが、正確な引用は後日することにしよう。句読点や空白も、
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「世界は新しい形のものである」とギブスン&スターリングが書いていた。これもまた、後日、正確に引用しよう。いや、たぶん、これで正確な引用だと思うのだけれど。いま探そう。『ディファレンス・エンジン』第二の反復からだった。「世界は新しい形のものだ」であった。黒丸 尚訳。
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フォルムの探究である。形式の発明である。わたしの関心はそこにある。内容はどうでもよい。意味はどうでもよい。フォルムというか、形式それ自体が内容であり、意味である。内容がないという内容であり、意味がないという意味である。まさしく、わたくしの生の実存にふさわしい。
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「LET THE MUSIC PLAY°」という作品を文学極道の詩投稿掲示板に投稿したのであるが、投稿する直前のものは、投稿したものとはまったく異なるものであった。もとのものは、まず長さが100分の1くらいのものであったのだ。投稿したものの冒頭の数ページ分のところだったのである。
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しかし、それでは文学極道の詩投稿掲示板を見ているひとを満足させることはできないのではないかと考え、構造的に複雑なものにする必要があると思ったのであった。そこで、ふと、同じ場面が繰り返し出てくるけれど、それぞれがまったく違う意味内容になるものを考えついたのであった。
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「全行引用詩」を書くきっかけのひとつは、マイク・レズニックの『暗殺者の惑星』だった。冒頭にいくつも並べて書かれてあったエピグラフを見て、感動したのであった。そして、もうひとつ、大きなきっかけとなったのは、
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スタンダールの未完成の作品であった。そのさいごの部分で、引用だけが延々と書きつづられる予定のものであったということを知ったときに、こころに決めたのであった。ぼくが28才のときのことであった。さいしょにつくった全行引用詩は、「聖なる館」というタイトルのものであった。
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「マールボロ。」が、ぼくに、「詩とはなにか」、「自我とはなにか」といったことを考えさせたことは、『理系の詩学』でも論じていたのだが、ここでも論じておこう。これが、ぼくの体験ではなく、ゲイの友だちの体験記を、ぼくがコラージュしたもので、ぼくの言葉がいっさい入って
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いないにもかかわらず、できた作品を、その友人が目にして、「これは、オレと違う。」といったことに、ぼくがショックを受けたことにはじまるのである。すべての言葉が彼の言葉なのに、選択と配列が、他者によってなされたときに、本人の体験から、いや、その体験の「実感」から離れるという
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ことに、ぼくが、とてもショックを受けたのである。では、ぼく自身の体験も、ぼくがぼくの体験を想起し、状況を再現した気になって、体験の断片を抽出し、それを言語化した段階で、「創作」になっているということにならないかという気がしたのである。つまり、思い出しているという
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自分が考えている思い出は、じつは、「創作」なのではないかというふうに思ったのである。純粋な現実というものがあるとしたら、それは、自分の脳みそに保存されている無意識層を総動員してもけっして再現されないということなのだと思い至ったのである。「思い出とは、創作である。」
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と、切に思ったのである。しかし、真実には触れているとは思う。虚偽というか、創作を含みはするけれど、自分の人生の真実にも触れているとは思う。そうでなければ、真実など、どこにも存在しないだろう。もしかすると、どこにも存在しないものかもしれないが、存在するという幻想は
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もちたい。というか、もって生きていると思う。ぼくの人生は、行き当たりばったりで、ひとというものの人生としては失敗である。ひとを愛する能力に著しく欠けた出来そこないのものである。だけど、せいいっぱいできることはしたと思う。能力がまずしいので、恥ずかしい生き方だが、
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そんなダメな人間でも、神さまはまだ生かしてくださっているのである。生きているかぎり、自分のできうることをすべてしたいと思っている。
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思い出が創作ならば、記憶もまた創作であろう。いや、記憶は創作である。そう断言できる。偽の記憶がいくつもある。こどものころの記憶を親にきくと、そんなことは一度もなかったというのだ。むかし百貨店の食堂に行くとかならずウェイトレスがこけて、粉々になったガラス食器で、
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顔じゅう血まみれになって、救急車のサイレンの音がしたと、ぼくは言うのだが、親はそんなことは一度もなかったと言う。商店街のそばの川の岩に、フナ虫のような気持ちの悪い虫がびっしりしがみついてうごめいていたと、ぼくは言うのだが、親はそんなことは一度もなかったと言う。
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むかし付き合ってた子とばったり再会した。タバコをやめて、かなり太っていて、でも前よりかわいくなっていて、ふたたび付き合うことになりました、笑。人生、なにがあるかわからない。何度か、ぼくがいないとき、マンションに来てくれてたりしたっていうのだけれど。
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ぼくがPCを替えたからメールが出来なくて、連絡がつかなかったのだ。ぼくは自分からメールするひとじゃないので、それで行き違いになったって感じかな。というか、ぼくが全面的に悪いのか。まあ、しかし、ぼくの恋愛って、こんなチグハグなことばかり。いいけどね。
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きのう、夜中の3時くらいまで、日知庵からゲイ・スナックへとはしごして飲んでたんだけど、よろよろと歩いて帰っていたら、河原町で、二十才ぐらいのこれまた酔っ払った男の子と女の子が前から歩いてきて、ぼくがその集団のなかに挟まれる格好になったんだけど、なかのひとり
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逞しい体格のカッコイイ青年が、突然、笑顔で、「握手しましょう」と言ってきて、彼が差し出した右手を握ったら、彼もギュッと握り返してきて、そのあと「また」と言って手を振るので、ぼくも手を振って立ち去った。不思議な経験をした。知らない男の子だった。なんかうれしかった。
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ぼくは、自分がとてもブサイクで、いやな性格で、ひとに好かれるタイプの明るい人間じゃないと、ふだんから思ってるから、居酒屋さんでも、道端でも、こんな経験をすると、とてもうれしい。よい詩に出合ったときの喜びに近いかな。いや、この出来事は詩だ。詩なのだった。
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きょうは、東寺のブックオフで、『VERY BAD POETRY edited by Kathryn Petras』を、105円で買った。
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ぼくが子どものときに疑問だったこと : 親がいること。
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いま思ったけど、「無」って漢字、「鎧」みたい。もしくは、「太めの女性のワンピース」みたい。
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俳句に「英単語」って、はじめて見た。 @trazomperche 緑陰や試験によく出る英単語
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袋に詰められるだけ詰めて思い出、300円だった。買ってきた思い出を射出する。床に落ちてぐったりしてる思い出を詰め直す。ちょっとくたびれた思い出を射出する。忘れられない思い出は、忘れられない思い出だ。はやっ、3回目でぐったりした。つぎの思い出を射出する。
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歯を磨いたかどうか忘れることがある。ぼくの母はとても薄いので、磨き過ぎると神経が剥き出しになる。朝の4時ごろに電話をかけてくる母を磨いたかどうか忘れることがある。ぼくの歯はとても薄いので、磨き過ぎると神経が剥き出しになって、朝の4時に電話をかけてくる。
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呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。リフレインはいつだってここちよい。ちょうど500円硬貨と同じ大きさだ。呼吸ができないと怒られる。ぼくにはわからない。
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ぼくは台所にはいない。ぼくはベランダにはいない。ぼくはトイレにはいない。ぼくは玄関にはいない。ぼくは部屋にはいない。靴箱のなかにも入っていないし、本棚にも並んでいない。リュックのなかにも入っていないし、PCのなかにも入っていない。ちょうどいい大きさだ。
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むかし、ちょっとのあいだ付き合ったトラッカーのこと、思い出してしまった。運動できる、かわいいブタって感じの青年やった。ジャニ系のゲイの子から好かれてて、困っていた。人間って、ぜいたくなんやなあと思った。なんで、その子とすぐに別れたのか思い出せへんけど。
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さっき思いついた詩句を忘れてしもうた。あ、濃い日付と薄い日付やった。忘れてもええ言葉やったね。書いてから気がついた。濃い煮つけと薄い煮つけの音からきてるのかなと、ふと思った。書いてはじめてわかる例やね。しかも、それが音から来てるんであろうってことが。
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液化交番って、なんかええ感じの言葉やね。気化植物なんてのは平凡か。これから、ちょっと焼酎のロックを飲んで、お風呂に入って、気分を盛り上げて、恋人とのデートにそなえる。意味のない、美しくもない、ただくだらないだけのぼくの大切な瞬間、刹那の思い出のために。
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袋に詰められるだけ詰めて同級生、300円だった。買ってきた同級生を射出する。床に落ちてぐったりしてる同級生を詰め直す。ちょっとくたびれた同級生を射出する。口から血涎が垂れ落ちる同級生は、ぼくと同い年だ。はやっ、3回目でぐったりした。つぎの同級生を射出する。
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袋に詰められるだけ詰めて正方形、300円だった。買ってきた正方形を射出する。床に落ちてぐったりしてる正方形を詰め直す。ちょっとくたびれた正方形を射出する。端から角が崩れる正方形は、ぼくと同じ図形だ。はやっ、3回目でぐったりした。つぎの正方形を射出する。
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袋に詰められるだけ詰めて雨粒、300円だった。買ってきた雨粒を射出する。床に落ちてぐったりしてる雨粒を詰め直す。ちょっとくたびれた雨粒を射出する。膝から虹がこぼれる雨粒は、ぼくと同じ雨粒だ。はやっ、3回目でぐったりした。つぎの雨粒を射出する。
〇
オレンジエキス入りの水を飲んで寝ます。恋人用に買っておいたものなのだけど、自分でアクエリアスをもってきて飲んでたから、ぼくが飲むことに。ぼくのことをもっと深く知りたいらしい。ぼくには深みがないから、より神秘的に思えるんじゃないかな。「あつすけさん、何者なんですか?」
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「何者でもないよ。ただのハゲオヤジ。きみのことが好きな、ただのハゲオヤジだよ。」、「朗読されてるチューブ、お気に入りに入れましたけど、じっさい、もっと男前ですやん。」、「えっ。」、「ぼく、撮ったげましょか。でも、それ見て、おれ、オナニーするかも知れません。」
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「なんぼでも、したらええやん。オナニーは悪いことちゃうよ。」、「こんど動画を撮ってもええですか。」、「ええよ。」「なんでも、おれの言うこと、聞いてくれて、おれ、幸せや。」、「ありがとう。ぼくも幸せやで。」これはきっと、ぼくが、不幸をより強烈に味わうための伏線なのだ。
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きょうデートした恋人に間違った待ち合わせ場所を教えて、ちょっと待たしてしまった。「放置プレイやと思って、おれ興奮して待っとったんですよ。」って言われた。ぼくの住んでるところの近く、ゲイの待ち合わせが多くて、よくゲイのカップルを見る。西大路五条の角の交差点前。
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身体を持ち上げて横にしてあげたら、すごく喜んでた。「うわ、すごい。おれ、夢中になりそうや。もっとわがまま言うて、ええですか?」、「かまへんで。」、「口うつしで、水ください。」ぼくは、はじめて自分の口に含んだ水を恋人の口のなかに落として入れた。そだ、水飲んで寝なきゃ。
〇
「彼女、いるんですか?」、「自分がバイやからって、ひともバイや思うたら、あかんで。まあ、バイ多いけどな。これまで、ぼくが付き合った子、みんなバイやったわ。偶然やろうけどね。」偶然違うやろうけどね。と、そう思うた。偶然で偶然違うていうこと。矛盾してるけどね。
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たくさんの手が出るおにぎり弁当がコンビニで新発売されるらしい。こわくて、よう手ぇ出されへんわと思った。きゅうに頭が痛くなって、どしたんやろうと思って手を額にあてたら熱が出てた。ノブユキも、ときどき熱が出るって言ってた。20年以上もむかしの話だけど。
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愛は理解だもの。 @ta_ke_61 思考とは愛である。
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さて、これから京都東急ホテルの2Fで開催される焼酎の会へ。いろんな業界のひとがきてるらしくって、えいちゃんが紹介してくれるっていうから、そこで、いろんな業界のひとたちに、ぼくの詩集を渡すことに。「そこで渡したら、はよ、なくなるやろ。」と、えいちゃんが。彼の言葉通りになるかな、笑。
〇
焼酎の会のあと、武田先生と、おされな店で飲んで、蕎麦屋でそばを食べ、そのあとジュンク堂に寄って、そこで武田先生と別行動になり、日知庵に行き、帰りに歩いていたら、十年以上もまえに付き合ってた子とばったり会って、ありゃ、こりゃ先月のパターンかと思ってると、そうでもなくて、
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いままで飲んでただけだけど、帰りに、またいっしょに飲みたいなって言ってきて、いろいろあったことをちゃらにして、この子はすごいなあと思ったのだけれど、この子の言葉でハッとした。ノブユキも、ほぼ同じ言葉を、ぼくにつぶやいたのだった。「おれ、つまらん人生してる。」
〇
その子は、「つまらない毎日。」でも、ぼくから見たら、その子も、ノブユキも、ぜんぜんつまらん人生していないし、つまらない毎日を過ごしてるようには見えないのだった。その子はショートドレッドのテクノカットで、おされなボンボンだし、ノブユキは毛髪残念組だけど、やはり
〇
ボンボンだし、まあ、二人とも、お金持ちの家の子だし、なに言ってるのかなって思ったのだけれど、ハッとしたっていうのは、つまらん人生とか、つまらない毎日ってのは、少なくない人間が日々感じていることなんだなってこと。成功してるひとって、ぼくの身近には、弟くらいしか
〇
いなくって、ぼくにはとてもムリって人生していて、ぼくは、ぼくの意味のない、美しくもない、くだらない人生を愛してるんだなって思ったのだった。ノブユキだって、その子だって、ぼくに、「くだらん人生してる。」、「つまらない毎日。」って言ったときには、半分笑いながら
〇
の、照れたような、あきれたような表情で、でも、けっしてつらいことを避けたり、嫌なことから逃げたりしてるような感じじゃなかった。その子もそうだった。人生を愛してるなって感じがしてた。じっさい愛してるとは言わなかったけれど、訊けば、二人ともそう答えたと思う。
〇
でも、逆に考えれば、とても不気味な人間ができあがる。意味のある、美しい、くだらなくない人生してるひと。これは怖くて不気味だなと思った。意味があるものをつくろうとしたり、美しいものをつくろうとしたり、くだらなくないものをつくろうとしてるわけだけど、どこかしら、
〇
いびつで不気味だ。そう考えると、意味にとりつかれたひとや、美にとりつかれたひとたちが、どこか不気味な感じをかもしだしているというのは、とてもよくわかる。何人もの詩人たちの顔が思い浮かんだ。ぼくは、むかし、雑誌に載ってる詩人の顔を見てびっくりした記憶がある。
〇
人生に生き生きとしたものを感じているのかどうか知らないけれど、けっして幸せそうじゃなかった。ぼくなんて、いっぱいいろんなことがあっても、ほとんどいつもニコニコしてるのだけれど、なんか取り憑かれてるっていうか、男の詩人も、女の詩人も怖い表情のひとばかりだった。
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いまは、そうじゃないみたいで、明るい表情で、ニコニコしてるひとが多くて、ぼくのように臆病なひとは、ほっとしてると思う。そういえば、むかしの詩人たちの作品には余裕がなかったなあ。
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余裕があったのって、西脇順三郎くらいじゃないかな。田村隆一も、吉岡 実も、彼らの書く詩には余裕がなかったし、表情にも余裕がなかったな。詩と詩人の顔はべつやろって、まえにだれかに言われたけれど、ぼくは、顔や表情に、ぜんぶ顕われてると思う派である。
〇
恋をしてもひとり。
〇
恋をしてはひとり。
〇
恋はしてもひとり。
〇
そうだね。この世に生まれてきたのは偶然だし、存在させられてきたのも、当初は自分の意志ではなかった。少なくとも自分の意志で、自分を存在させてきたのではなかった。しかし、自己を意識的に省みることができるようになった時点で、自分を存在させているのは自分の意志であるというべきだと思う。
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存在をやめることは、それほど容易ではないが、それほど困難なことでもない。存在するとは、意志的なものなのである。意志的なもののみ存在するわけではないが、ものごとにも意志があるとすれば、すべて存在するものは意志をもつものであると言えるだろう。かつて教会は、動物をさえ裁判にかけたのだ。
〇
ぼくは、ものごとにも意志があって、それがすべてひとつの意志につながっていると思っている。すべての人間のこころと行いとを通してのみ神が存在すると、かつてぼくは書いたけれど、いまでも、ぼくはそう思っていて、だから、他人を理解することは人間が神を理解し、神が人間を理解することだと思って
〇
いて、どのひとの、どのような行いも、神の行いであり、神の意志であり、神への行いであり、神への意志だと思っている。もうじき、ひとりの神が、ぼくの部屋にくる。その神のために、そして、ぼくという、もうひとりの神のために、これから近くのイオンに行って、お昼ご飯用のお弁当を買ってくる。
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まるしげの「わさび鉄火」と「呼吸チョコ」を食べた。どちらもデリシャス。「わさび鉄火で笑うものは、わさび鉄火で泣くんだよ。」という言葉に対して、「なにか仕掛けるつもり?」というぼくの返し。人生、ハラハラ、ドキドキですな。もういい加減たくさん人生してきたつもりだったけど、まだまだするよ。
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これからお風呂に。それから、きみやさんに。えいちゃんも行くって言ってた、友だちと。からだの大きい人間が4人ね。デブが4人とは書かない。さっき友だちに、えいちゃんも行くって言ってたよ、おデブの友だちと、とメールしたら、「4人もデブが恐ろしい。」と。なんもせえへんわ。お酒飲みに行くだけ。
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なぜ、言葉にするのか。言葉にすることによって、その言葉が対象とする事物だけではなく、その言葉自体と、より親密なつながりがもてるからである。詩人は何度も何度も同じ言葉をいくつもの詩のなかに置く。詩人はその言葉を違った目で見ているのだ。言葉もまた違った目で詩人を見つめ返しているのだ。
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ツイッター。なんとすぐれたツールだろう。内省がいとも簡単にできる。なんという時代だろう。言葉の訓練が、思考の訓練が、こんなに簡単にできるなんて。まあ、簡単にできる内省であり、思考である可能性もあるが、実感としては、おもしろいくらい深いところまで行けるツールだと思っている。
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思考なんて、せいぜい、140文字程度の言葉の連続でしかないのだ。あるいは、もっと少ないかもしれない。ぼくがつくってきた、どれほど長い詩でも、せいぜい数行単位の詩句やメモの類の連なりにしかすぎなかった。
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ただ、ある瞬間に使うべき断片がひとつになるか、ある瞬間に構造とか構成がすべて頭に焼き付いて、そのあとその焼き付いた図面通りに言葉を配するかのどちらかなのだ。いずれにせよ、瞬間に起こることなのだ。おそらく、ひとつのツイットを書く時間の1400分の1くらいのスピードだろう。
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さっきまで西院のモスで、二人でモーニング。隣の隣にいた、一人できてたおデブさんのことを、彼が「こっちのひとかな?」と言うので、「ぽいけど、ぽくって違うひともいるしね。」短髪・ヒゲ・ガチポチャならゲイっていうのも、なんだかなあと思いつつ、やっぱり、ぽかったかなあと思って、部屋に戻った。
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人間と人間とのあいだには、分かり合えることなど何一つもない。完全な自己把握すら不可能なのだから、他者の思考をその他者の思考通りに理解することなどまったく不可能であろう。唯一可能なのは、「分かり合えるかもしれない」、「他者の思考を他者の思考通りに理解できるかもしれない」といった希望を持つことのみ。