問わず語り(2)
降墨睨白島(furusumi geihakutou)
イチローのバッティングフォームやタイミングの取り方は真似できても(ニッチローみたいに)実際のイチローのような不滅の記録は残せない。不滅(おそらく)であるとすると、イチローそのものが詩であるともいえる。文字じゃないけど。とすれば、イチローの言葉を活字にしたものは詩みたいなもの。野茂も。あまりしゃべらないけど。
その際、たとえばイチローが野球人の魂と言ってるのを自分自身で活字化したとき、野球人のタマシイとか野球人のたましひとかとしたとする。カタカナはおかしいし、軽薄な感じがるする(イチローもそういえばカタカナだけど)。思うのは自由であるし、感想としてはそれでいい。逆にイチローが自らの感性でタマシイと書いても、たましひでも自由で、そこにはイチローらしさがあるだけで正誤な問わはない。ただ、一応一般的には『野球人の魂』でいいんじゃないか。
それよりも、やはり、イチローが思う『野球人ノタマシイ』の中身が大切であり、興味深い。詩も同じで人がどう感じるか?自分はこう感じるの濃淡で鑑賞するもの。書く方も読む方もそれぞれ自分があるからまさしく合う合わないそれぞれ。究極は好き嫌い。好きと言われればありがとう、嫌いと言われればそうですか、ではないだろうか。いややはりこれはこうだ、いやいやそうじゃないというのは何かを生み出す議論ならいいけれど、大概は喧しいだけだったりする。
カタカナについて書くつもりがのっけからズレた。カタカナは最初漢文の書き下し文のために使われていたとか。当時の舶来最高レベルの知識に寄り添うカタカナ。その名残ではないけど、舶来言葉はカタカナにする。その他AI曰く『言葉を印象づける: カタカナ表記にすると、文章中の言葉が強調され、強く印象づけることができます。 言葉を浮き立たせる: キーワードが強調されることで内容が理解しやすくなります。 言葉の意味を軽くする: カタカナには、皮肉、からかい、ユーモアのニュアンスを伝えたり、意味合いを軽くする働きがあります。 言葉をカッコよくする: カタカナは、先進的で洗練された印象を与えたり、勢いのある感じを伝えたりする力があります。 文章に変化やリズムが生まれ、読みやすくなる: カタカナが入ることによって、文章に変化やリズムが生まれ、読みやすくなるのです。 文脈を推定したり意味を解釈したりするコストを大幅に削減する: カタカナ表記は、文脈を推定したり意味を解釈したりするコストを大幅に削減するために用いられます。 デザイン性: 漢字をカタカナに変えるだけでその言葉がキャッチコピーになることがあるほど、カタカナはデザイン性を含んでいます』だって、面倒くさい。
こういう知識、勉強、技術という感じのアプローチも大事だろうし。そういうものが幹になって詩を書く人もいる。いわゆる努力型、秀才型。形式主義、型にはまる、狭量に陥りやすく、理解しにくいものを理解出来ず時に攻撃的になったりする。
一方で、キラッとひらめいて一気呵成、校正もしない(よく叱られがち)、ひらめき型、天才型。駄目人間、いい加減、野放図、自分以外がバカに見えるので時に攻撃的になったりする。
過ぎたるは及ばざるが如し。バカじゃなれない賢じゃなれない、中途半端じゃなおなれはないのはヤクザ。詩を書くのも、生きるのも凡庸が一番かもしれない。