中国本土のドラマ
室町 礼
白豚がきらいだし、名誉白豚もきらいなので
この三年ばかりずっと中国本土の配信ドラマ
ばかりをみてきました。
中国の配信会社では本土のドラマだけではな
くわずかとはいえタイ、フィリピン、バング
ラディシュ、中東などのドラマも配信されて
います。残念ながら役者の質や作る側の意欲
はわかるのですが
今のところ開発途上国のシナリオや映像技術
はまだまだというのが個人的な感想です。
その開発途上国よりひどい日本のドラマは20
00年以後ほとんどみていません。
理由は2つ。
1️⃣シナリオがひどい。
2️⃣役者の演技が稚拙。
以上。
映像技術は外国に遜色ないのですが、
とくに1️⃣については言語表現の平準化が日本
全体を覆い、あらゆる分野で意欲も理念も情
熱もない流れ作業のようなものがつくられて
いることと関連しているのではないかと思わ
れるのです。
日本の表現文化全体が底落ちしている。
映画やドラマのシナリオというのは日常会話
でもすべて或る種の「比ゆ」なのです。人間
の一生をわずか数時間、数十時間で表現する
映画やドラマの会話がたとえ日常会話であっ
ても普通の日常会話であるはずがない。すべ
て或る種の「遊戯」や「ゲーム」が裏に秘め
られている。そうでないとバカバカしくてだ
れが他人の人生ドラマなどみますか。
例えば米映画『イコライザー2』では難破した
凄腕の殺し屋マッコールを村の篤志家が救け
る。身体に銃弾を受けていかにも怪しい殺し
屋を警察に突き出すべきかどうか迷い篤志家
は殺し屋に尋ねる。
「きみは善人かね悪人かね」
殺し屋マッコールは即座に答える。
「わからない」
篤志家はあとで殺し屋になぜ救けたかと聞か
れてこう述懐する。
「善人は"わからない"というものさ」
わたしなら「人が嫌がることをしない人間で
ありたいと願って生きてきた」
と答えるかもしれない。
目前のことばに囚われてイエスかノーで答え
るのはつまらない。
詩のボクシングをはじめた楠かつのりが谷川
俊太郎に協力を願い出たとき初対面の若者に
向かって谷川は「きみは善人かね悪人かね」
と尋ねた。楠は「善人です」と答える。それ
で谷川はくすのきを信じたというのだが、実
際の生活におけるシーンでこんな会話を交わ
す人はちょっといません。「生活」とは無縁
な詩人谷川だからいえたセリフでしょうけど
これが映画ならかなりつまらない映画です。
いや、待てよ。あるシチュエーションならか
えって現実離れして面白いかも。
それはともかくとして、えー、
要するに目前のことばに囚われないでことば
を自由に遊ばせてやる。それがシナリオのセ
リフだとおもいます。
みなさまも欧米映画やドラマのセリフを思い
出してみれば納得されるでしょうけど《順接》
の応答などひとつもありません。
ところが昨今の日本ドラマのシナリオのセリ
フはすべて目前のことばに囚われている。こ
とばが《順接》であることがお決まりのよう
で、みていて退屈であるだけでなく息がつま
る。日本のドラマのセリフは"破綻"や"脱出"
や"分解"を決して許さない。たとえそのドラ
マが破綻や脱出や分解を描いていたとしても
セリフが拘束されているから殺人事件だろう
とサスペンスだろうと不倫だろうと何だろう
と安全安心なお茶の間のホームドラマになる。
すべてほぼ次のセリフがどんなものかわたし
にはわかりますし、予想しても100%ピンポン
です。たまに我慢して日本の映画やドラマを
みようとしても数分、数十秒で切ります。あ
まりにも無惨だから。
さて、
中国という国は不思議な国で、
もちろん欧米同様、順接のセリフなどひとつ
もないのですが、圧倒されるのはその量です。
エネルギーの凝縮と爆発が尋常じゃない。役
者も監督も脚本家も、とてつもない才能が巷
に隠れている。いわば値千金の壺や皿が朝市
に投げ売りされているようなものです。
習近平体制になってから検閲が進み、日本同
様ドラマの空洞化が政治的思惑から完成され
つつある現在はもうボロボロですが百にひと
つくらい稀に隠されていた才能が間違ってあ
らわれる。そういうものに出会うともう目が
つぶれそうなほどの感動がある。
米のドラマ配信会社NETFLIXが日本に初上陸
したときの目玉が「マルコ・ポーロ」だった。
マルコ・ポーロが蒙古に幽閉されていた日々
を描くものですが、
これには中国映画界が全面協力しており、目
を見張るのは道を歩くだけのエキストラの一
人一人が大げさではなく役所広司より存在感
があること。笑 いや、ほんと。
存在感。これが役者の生命だし、それは実は
生まれつきの天才といえるもので学んで身に
つくものではない。
日本のように平準化された受験体制、平準化
された社会形態や風習習慣通俗のもとでドン
グリのように、突出したところもなく同じよ
うに育てられた人間が、そこに居心地の
悪さや退屈さや反感を感じることなくむしろ
安心安全の根拠をそこ(「平準化」)に見出し
て手で囲おうとするとき、いったいどんな
《逆接》の会話や文学や詩が生まれるという
のでしょう。現代詩でいえば、
いかように現代詩ぶってもそれが《順接》で
あることは間違いようもなく、いかほど感性
や思考力で見栄えを粉飾しても読むものが読
めば例の「あくび」と「眠気」がさしてくる
シロモノにすぎないような気がします。
(詩壇や詩誌のことをいってるのであってこ
の投稿板の一部投稿詩は別格です)
2️⃣の日本の役者の演技があまりに稚拙という
のは実は存在感が皆無なことと関係して
いる。みていて生きた人間の気がしないので
す。それはつまり日本人が生きている人間と
してわたしには映らないことと同じです。
あなた様方はそんなバカな感覚はないでしょ
うけど、昭和と令和という2つの時代を股に
してしまったわたしにしてみれば明らかに今
の日本人は生命をなくして死んでいます。
役所広司がカンヌで賞をとろうがとるまいが
わたしからみれば役者としてはスカスカです。
中国のエキストラの一民衆役のアルバイトに
も劣るかもしれません。
(そんなバカな。あの役所広司が大根なわけ
ないだろ)というかもしれませんが、わたし
にいわせればつまらない役者です。でもあの
どこにも逃げていくことのない内にまとまっ
た演じ人は日本人や欧米のその手の弛緩して
しまった映画人や批評家には魅力があるのか
もしれませんが。
ああ、書きたいことが山程あるのにいつも眼
が限界に達してしまう。
ああ。ったく、なんてこった、
ちなみに中国の配信会社は最低でもフルHD
の映像で配信しており、しかも何であれ
ダウンロード自由です。太っ腹なものです。
話が飛躍するかも知れませんが、平安末期、
従三位以下の貴族は御殿に参上できなかった
のになぜ白拍子、鉦叩き、猿飼い、歩き横行
などの非人、乞食、遊芸人が後白河天皇の御
殿への参上が往来自由で許されたか。
平安文化が煮詰まってきて、内部の文化人だ
けではもはやにっちもさっちもいかなくなっ
たからです。歌も踊りもなにもかもつまらな
くなって外部から新しい風を導かなけれ
ばどうにならなくなった。そこで歌好きの後
白河は英断を下した。いまの日本もそう
いう情況になっている。
経済も文化も政治もなにもかもが硬直している。
中東やアジア全域からの移民がどのようにこの
国の硬直した情況を刷新するか見ものですが
実のところ自公立民政権の下では大して期待は
しておりません。無責任かつ無策の、大企業の
廉価な労働力を補填するだけの亡国政策はいず
れこの国を大変な混乱へと導きボロボロにする
でしょう。それもまたひとつの文化の転換のきっ
かけになるかもしれませんが....こんなことま
でしてねえ。