詩論
杉原詠二(黒髪)
わたしは、萩原朔太郎の詩語の使い方が、人工的で、作り物に思えるのです。彼の感情自体が、大げさで、美しいところがなく思えるのです。もっと長く生きていれば、独自の詩境を切り開けたかもしれませんが、運がなかったといえるでしょう。
谷川俊太郎の詩は、やたらに淡白で、作り物めいた印象を受けます。言葉遣いに誠実さがなく、己のキャラクターをより前面に押し出している感じ。生きている、ということも、そこからどう自己を展開していくかということに向かず、命のきらめき、陽光が美しい、といったような、子どもでも感じるようなことを再発見せよと言っているだけに思える。つまり、生産的でないのです。ただ、晩年において、かれは、宗教的方向へ、変わりました。そのたんぱくなる所が、自在な筆になって、音として美しい詩を書くようになりました。そして、世界的にも通用するような詩人になったといえるでしょう。
例えば吉増剛造を例に取りましょう。彼は、言語に徹底的にこだわり、怪物級の記憶力と想像力をもって、新しい詩の世界を切り開きました。抒情に、真実を込めたといっていいでしょう。そうして残った詩集たちには、歴史的意義が宿っています。
闘う方向を見いだせない戦士は、余分な血を流すだけで、本当の強さを得られないでしょう。同じように、本当の歌を歌えない詩人は、石を投げているだけと同じ意味しか持ちません。
詩は、愛を、真実を、美を希求しなければなりません。その道のりは、人に代わってもらうのではなく、大評論家の理論に乗るのではなく、自己の感覚と発想において、自分自身の詩作の中から、見つけ出して行くものに外なりません。
自分で道を歩けない詩人に、己を誇る資格はなし。
愛とは、他人のことを思い、他人の幸福を願う心です。真実とは、嘘ごまかしのない、本当の価値のことです。美とは、心を導き、真実へと至らせてくれる、快い清潔さのことです。
それらは、詩の中で、補い合って、絡み合って、育て合って、詩そのものになります。
言語とは、音と文字を、文法に従って組み立て、意味を持たせた、心の表現のことを言うでしょう。
言語芸術は、即興的にも、記録的にもなります。
つまり、詩は言語芸術です。