サヨクリベラルを毎回デスっていますが、
じつは、わたしがサヨクリベラルです。
生まれつきの、生粋のサヨクですし、
生き様も生粋のリベラルです。
反天皇ですし反権力ですし労働者の味方です。
(天皇に関しては反天皇というより、まったく眼中にない
んですよね、これが。生まれつき何の関心もない。
天皇の戦争責任とかまったく論外。すべて資本の問題で天
皇家はただの繰り人形でしかなかったという考えです。と
はいえ戦争責任がなくともあえて責任をとって切腹しても
よかった。そうすればもっと日本人に尊皇の念を生み、天
皇制は盤石のものになったでしょう。それどころか戦後日
本人の意識の在り方が変わっていた。おそらくGHQがそれを
させなかったのかも知れません。天皇が責任をとって自死
していたら果たして日本の統治がうまくいったものかどう
か。
それどころか戦後のふわふわとした意味不明の社会になっ
ていたかどうか。今からでも遅くない。令和天皇は先の大
戦の責任をとって自死すると宣言し、潔く割腹すれば日本
社会は一気に変質します。それは似非共産主義者や巨大資
本の一番怖がることなので絶対にやらせませんが、三島由
紀夫は暗に天皇に対する諌めとして割腹したのだとわたし
は個人的に考えています。だれもそんな解釈
していませんが.......)
さて、わたしがサヨクリベラルであること、
これはわたしの意志ではなく生まれがわたしをそうさせて
いるのです。
わたしという存在自体がサヨクリベラルです。
ベ平連なんかをわたしは心情的に支援していましたし
土井たか子の社会党なんかも微笑ましくみていました。
だからこそ戦後から1990年まで続いたサヨクリベラル
の活動内容が根底から180度ひっくり返った今の似非サヨ
クリベラルの存在に心の底から怒りを覚えるのです。
ある時期のある出来事をさかいにサヨクリベラルの体質が
一変したと個人的には思っています。サヨク活動家たちに
カネをばら撒くNPOやNGOという制度が出来たとたん彼ら
彼女らの肉を腐らせ骨まで蝕んでしまったのです。
カネが入ってくるとサヨクでもリベラルでもなくなった。
では、そういう連中をなんというのかというと「家畜」=
金型で打ち抜かれた豚です。
マネーという餌をぶうぶう唸りながらくらう人間のかたち
をした豚です。
もの凄く単純なことにまたしてもカネ(資本)です。カネ
ごときで、いかほどに高尚な倫理を振り回していても簡単
に人間てやつは家畜化します。
前にも話しましたが「小さな政府」というものは官僚の利権
を無限大に膨らませるものです。本来、政府がやるべき仕事
を民間にやらせるのだから一見、政府の権限が小さくなるよ
うに見えますが逆なのです。政府の仕事なら発生しないが民
間にやらせると「許認可」という利権が生じる。また、政府
内での仕事ならわずか一円のカネでも厳しく会計検査院から
追求されるが、
民間に委託した場合は基本的に会計検査はありません。
(NPO法では、一定規模以上のNPO法人【例:収益事業を行
う場合や規模が大きい場合】に、会計監査人(公認会計士や
監査法人など)による外部監査を任意で受けることが"推奨さ
れ"ていますが、義務ではありません。wiki)
そこで官僚たちは山ほどNPO、NGOをつくりサヨクリベラル
と手を組んで公金をチューチューしはじめた。天下り先だけ
じゃなく巨大な税金を好き放題にチューチューできるのです。
想像でいってるのではなくわたしはこの雛形、先駆型を西成
あいりん地区の釜ヶ崎反失業NPO法人をみてつぶさに研究し
つくしているのです。
もっとひどいことには、組織暴力団の幹部構成員がこの旨味
に味をしめ表向きは引退してNPOやNGOを始めたことです。
このことでサヨクリベラルと暴力団と高級官僚&政治家が強
く結びつきました。
これは大阪西成釜ヶ崎でも同じです。
ありとあらゆる邪悪が「リベラル」「人権」「反差別」の名
のもとで横行しています。それは当然、この日本全体を覆って
いる邪悪でもあるのです。
例えば上野千鶴子というフェミの東大教授は
「みんな一緒に貧しくなろう」といって叩かれた。本人は
高級タワマンに住み外車を乗り回しているからです。
https://www.mag2.com/p/money/1009753
上野がタワマンに住もうが外車を乗り回そうが別にどうって
ことはないのですがその資金の出所がいっさい明らかになって
いない。
認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)の
理事長や
上野千鶴子基金の理事長をやっているが会計は一切不明です。
いっしょに貧乏になろう=人間、貧乏でいいのだという人が
会計を隠蔽しているのはおかしいじゃないですか。
これだけでも不審ですが、どうやら中国から莫大な資金を得
ていることもわかっている。それ、ちゃんと税金申告してい
るのでしょうかね。
もっとひどいことにはそれを何か善行のように本気で信じてる
作家、詩人、批評家がいる。一歩も本から学んだ観念的知識の
世界から抜け出すこともできず、言葉の牢獄に幽閉されている。
2000年以後の現代詩人、とくに詩壇文壇の頭のイカれた連中。
これは映画界も同じことです。もはや党派的な特殊性がまず判
定され、それにうからないと評価されない世界になっている。
政治性が文学性を圧倒している。
こんな死海のような文学情況を甘受している今の文学世界
にいったいどんな生きた言葉が生まれるでしょうか。死滅した
海。非常に鹵(しお)の濃度が濃い、魚がもう生きられない、
そのような死海がわたしたちの足下に広がっている。たとえば
TBSのような露骨に巨大資本の側にたって似非倫理をふりまわ
す言説がまかりとおり、日本人が意識を支配されている。
それをまだサヨクリベラルというのでしょうか。
みなさま。如何なさいますか。あひっ。