I氏の手のひら
花野誉
ほんのり朝日が差す狭い部屋
人が縦横無尽に眠る中で目覚め
I氏と目が合った
時折蘇る甘苦い記憶
I氏は誰もが認める男前
気さくな好男子
でも
踏み出す勇気は湧かない
整いすぎた顔に
あまりにも無垢で素朴な様子
勇気は萎えしぼむ
地元仲間と六甲山へのドライブ帰り
誰かの家で雑魚寝
左向き 恋人の胸に潜りこみ眠る
目が覚めると
右向き 鼻先にI氏の顔
彼の大きな掌に自分の頰が乗っかっていて
どうしたもんかと
息をひそめて寝顔を見ていた
ふいに彼の目がパチリと開く
暫しの沈黙と見つめ合い
このまま口吻してくれたらいいのに
背徳感と陶酔で
胸が苦しくなりそうな頃
「おはよう」
屈託の無い笑顔を私に差し向ける
勝手な幻想はあっという間に霧散した
自覚のない男前に
絶対恋なんてしない!
微笑み返して直ぐ左を向いた
数年後
I氏を見かけた折
何かに疲れたかのような妻と
幼い男の子を連れて歩いていた
かっての犯しがたい雰囲気は
影も形もなかった
それでも
未だに蘇る手のひらのカタチと温度は
ポケットの中の飴玉のひとつである