ピカチュウ
無名猫
満員電車の窓に映る
よれたスーツと、冴えない顔
「パパ、がんばってね」
息子がくれたピカチュウのシール
名刺入れの裏に、ひっそりと貼ってある
雷を放てるわけじゃない
敵を倒せるわけでもない
けれど今日も、
会議室の沈黙に
「はい、検討します」
技のように、作り笑いを繰り出す
帰りの駅、
ベンチに座って
缶ビールを開ける音が、かすかに
「ピカチュウ」
と聞こえた気がして
疲れた口元が、少し緩む
あのころは
駅まで競争して、
勝っても負けても君は笑ってた
最近は
ドアの向こうで「いってらっしゃい」もない
休みの日も「友だちと遊ぶから」
ピカチュウの声だけが、
リビングに響く
君は夢中でスイッチを握る
画面の中のピカチュウは、無限に元気
おれの充電器は、どこだっけ
小さな手の中の黄色い希望に
今日も、負けた気がするけど
名刺入れの裏側で
くたびれたシールが
「パパ、だいじょうぶだよ」って
昔の声でささやいていた
あれから十数年
君は大学の卒業式を目前にして
真新しいダークスーツは眩しくて
「別に、そんな感傷いらないよ」と笑う
その声はもう、少年ではない
部屋にはもう
ピカチュウはいない
けれど、本棚の奥に
少し日焼けしたゲームソフトと
折れたキーホルダーが
静かに眠っている
おれは今も
会議室で雷を落とせず
腕がもげるほどの資料を抱えて
「対応いたします」と、必殺技を繰り出す
ふと、名刺入れを開けば
角が丸くなったシールが
まだそこにいて
ピカチュウはもう、何も言わない
でも、たしかに
おれの中に君はいる
君はもうすぐ、新しい世界に旅立つ