ちいかわ
無名猫
元カレが詩人デビューした。
「風の叫びに耳澄ます夜」とかいう詩集を出して、意識高そうな書店に平積みされてるのを偶然見かけたとき、思わず飲んでたスタバのラテが鼻に入りそうになった。
……風って、しゃべるの?
記念日にサプライズとかも一切なくて、そういうの恥ずかしいみたいな態度を取っていたのに。
それが今や、“風の叫び”に“耳を澄ます夜”?
キャラ設定どこで変えた?
痛い。痛すぎ。まじで別れて良かった。
むかついたからSNSを探したら、やつを見つけた。昔はやってなかったのに
「光が強すぎて影に恋をした」とか、「世界はまだ言葉を欲してる」とか、J-POPみたいなポエムを堂々とつぶやいてて、思わず冷や汗が出た。共感性羞恥って、このことか。
だってさ、すごい無口だったのに。
別れ話のとき、ただ一言、ぼそりと
「ごめん」としか言わなかったのに。
そういえば、別れたあとに友達から聞いて、驚いた。
「あいつ、実はめっちゃ、ちいかわ好きだったらしいよ」
ちいかわ?
最初、何かの冗談かと思った。
だってスマホは無地だし、部屋はミニマリズム。
声も低め。というか、付き合ったのに、実はあまり声を聞いたことがない。
ちいかわの「ち」の字も出なかった人。
でも言われてみれば、コンビニでちいかわのグミをよく買ってたのを思い出した。
「グミ好きなの?」って聞いたら、微妙な笑顔で返してきたけど、あれって中のシール目当てだったのか。
やっぱり別れて正解だった。
私は仕事して、疲れて、メイク落として、また次の日を乗り越えている。
やつは、風の声を聞いて、それを作品にしてる。
なんか、ますますむかついてきた。風に謝ってほしい。
それでも今日、なんとなく本屋でその詩集を買ってしまって、
夜、部屋でそっと開いて、声に出して読んでみた。
やっぱり痛い。
痛いけど、
ちょっとだけ、やつのあの頃の沈黙が、言葉になった気がして、
少しだけ、胸の奥があたたかくなった。
そういえば、ちいかわは喋らない。
やつも喋らなかった。
それなのに、
今になって、心の奥をこんなふうに語るなんて。
なんだか、ずるい。
ちゃんと詩人になってて、ずるい。
ページを閉じたあと、部屋が少し広く感じた。
その静けさに、ふと胸がほどけて、気づいたら涙が頬を伝っていた。