HELLO KITTY
無名猫
ロンドンの霧は境界をやさしく溶かしていく。「ここからがわたし」が、見えなくなる。鏡の前で問いかけても、答える者はもちろんいない。わたし自身さえ知らないのだから。
「女の子」と呼ばれている。けれど、この耳は猫のかたち。この沈黙は、演技ではない。選んだのではなく、与えられたもの。名も、姿も、あらゆる仕様さえも。
チャーミーが鳴いた夜、わたしはベッドに横たわった。ドアの向こうの靴音が、わたしの身体を呼ぶ。湿った夜のにおい。見知らぬ誰かの体温。
言葉は、わたしには贅沢だった。「こわい」と言えば、値段が下がると教わった。だから言葉を棄てた。あるいは、奪われた。
リボンを結ばれた日を、わたしは覚えていない。でも、それが「わたしの中心」になった。笑顔の包装紙にくるまれて、玩具屋の棚に並ぶ。誰かの夜の寂しさを埋めるため、かわいさの仮面を貼りつけて。
ぬいぐるみみたいに抱かれて、猫みたいに飼われている。「キティ」という名札は、わたしの商売道具。愛されるため、生きるための記号。
チャーミーは自由だ。跳ね、鳴き、逃げていく。わたしは逃げるふりして、ただただ、そこにいる。誰かに触れられるのを待ち、値踏みされるために。うらやましいという心さえ、もう忘れてしまった。
朝が来るたび、わたしは鏡の中の自分を塗りなおす。笑顔を上書きし、肌のうすさをごまかしながら、今日も「キティ」として立ち上がる。
わたしではない「わたし」を生きる。拒むことも、逃げることもできない。せめて沈黙の奥に、たったひとことだけを隠しながら。
HELLO!!
無垢を演じる唇。いつものように差し出された、よく訓練された笑み。
けれどその奥底に、誰にも気づかれない叫びが、密やかに息づいている。