天使の梯子
室町 礼
ミッシェル・フーコ。あまりよく知らないですが
最近、35年も前に亡くなっていたことを知って意
外な気がしました。いまも傍らにいて世界をじっ
と見守ってくれているような気がしていたのです
が──53歳の若さで亡くなったらしい。
惜しいことをしました。
むかし、
パリの文人カフェを真似たのかどうか新宿に風月
堂という喫茶店がありまして。西の六曜社、東の
風月堂といわれ、青っちろいけど尖った文学青年
や政治活動家たちが集まって独断的で稚拙な世界
観を語り合っていました。フーコもしきりにこと
あげされた思想家の一人で、もちろん、だれ一人
フーコの思想など身体の問題として理解などして
いなかったように思います。
無学無知のわたしなどに議論の内容が理解できた
わけがなかったとしてもほんとうは非常に深刻で
かつ何十年も先の未来を透視する哲学思想を、ま
あ、なんというか棒でも振り回すように手軽に語
っていた。それがつまらないというのではなく所
詮、青少年とはそんなものじゃないでしょうか。
えー、
それはどうでもいいのですが、
その風月堂前の道を新宿駅のほうへ歩くと最初の
十字路を左へ曲がったところに日活ポルノ映画館
があった。劇場のように大きな映画館で何時いっ
てもガラガラでした。
館内全体がひんやりしてロビーの廊下も薄闇に包
まれておりこれほど静かに昼寝の出来るところも
なかった。いつも廊下の少しくたびれた長椅子に
寝転んで空調配管が剥き出しの高い天井を見なが
ら物思いにふけったものです。
かつては日活スターで稼いていた会社がいまはロ
マンポルノでやっと息をついている。豪華な映画
館も寂れて都会の喧騒の中で墓所のように静かだ。
ときどき滅多にいない客のだれかが扉をひらくと
上映中の映画のセリフが廊下に流れてきた。
「ちょっと、おまえ…克じゃないか?」
「 誰だよそれ、知らねえよ」
『恋人たちは濡れた』の冒頭、東京から故郷に戻
ってきた男が、かつての知人友人に声をかけられ
るが「知らない」といいはる。ロマンポルノとい
いながら難解でちょっと知が勝ちすぎた映画だっ
た。
当時ピンク映画はたいてい三本立てだったが、売
れない浅草芸人のミトキンさんにいわせると「い
や四本立てだよ」という。
「どうしてです?」
「もう一本、立ってるじゃないか」
そうだ、ポルノなのに立たせない映画なんて詐欺
だ。
ミトキンさんはわたしがストリップ劇場の照明係
をやっていたとき幕間にコントをやる人だった。
シミキンの弟子を自称していたがその笑いの技は
抜群だった。そしていつも愚痴をこぼしていた。
「おれのネタをね、また盗んでテレビでやってや
がるの」売れっ子の芸人がたまにお忍びでやって
きてネタを聞くと次の日にはテレビでやっている
というのだが、自慢するだけのことはあってミト
キンさんは評判がよかった。わたしはいつも笑い
転げていた。
その後どうなったのか気にしていると、
花魁ショーストリップで有名になった浅草駒太
夫のヒモのような旦那、斎藤某が「ああ、あいつ。
酒でくたばっちゃまったよ」と怒ったように教え
てくれた。
お笑いの世界、ヌードの世界というのは裏に回る
と過酷で非情な世界だった。そしてどの芸人さん
も、一人になればひどく哲学的なことを語るイン
テリだった。
ふとみると傍らに中年の白人が立っていた。
予算がないため朽ち放題の、しかし清掃だけは念
入りにされているトイレへから出てきたのだ。
男はカタコトだけど正確な日本語を話した。
「この映画館の教会の礼拝堂のようにおごそかな
雰囲気に心を打をたれます」
そんなことをいった。
行き場をなくし、仕方なく映画館で寝ていたのだ
けど、かれはこの映画館に出没するそのほうの趣
味の者と勘違いしたようだった。でもすぐに誤解
は解けた。だからといって邪険にはしないでコー
ヒーをおごってくれた。
コーヒー一杯で半日もねばれる、放浪者にとって
天国みたいな喫茶店、風月堂を知ったのはこのと
きだ。あとでこの外人さんが日本では知られた映
画評論家で日本文化研究家でもあることを知った。
それにしてもフーコの思想的な予知能力には脅かされる。
もう一年半も続く日本の主要マスコミによる兵庫県知事
叩きは──その執拗さと、公平性、透明性のなさからし
てマスメディアによるイジメといってもいいような陰湿
な暴力性を、もはや隠すこともせずにあらわにしている。
その理由を考えているうちにどういうわけかフーコの思
想に行き着いた。半世紀も前にフランスの思想家が日本
のこのドタバタ狂騒劇の構造を知っていたかのようなこ
とを記している。
メディアは「正常」や「異常」を定義する言説を
生産し、視聴者の意識や行動を形作る。
『監獄の誕生』
一見なんてこともないふうに見える言及だが、
この思想家が秀逸だったのは規範権力を司るのが知識階
級であることを見抜いていたことだった。つまり知=権
力だった。これは当然のことで知とは言葉である。そし
て言葉とは規範だ。この場合の規範とはゲームの基本的
な枠組みという意味ではなくほんとうに権力そのもので
あるという意味において使われる。つまり知=言語であ
り、それの誕生が「監獄(知)」の「誕生」なのだ。
半世紀前ではなく今こそフーコが必要な時代が来ている。
しかし、おそらくだからこそフーコは知によって遠ざけ
られるだろう。
TBSが毎週末に放送する『報道特集』というものがあ
る。
この放送の全権をもつ編集長は在日韓国人の曺琴袖(チ
ョウ・クンス)だが、彼女の報道姿勢にこれまでの報道
にはなかった異様な偏執性を見い出して、たじたじする。
一地方の知事ごときをもう一年半も追い回して執拗に攻
撃しているのだ。しかもウソをつきデマを流しても。
そんなことをいうと彼女は出自に対する「民族差別だ」
「中傷だ」というが、出自はいまや批判を無効にする時
代になったのだろうか。
それが事実に基づくものならともかく、多くの人たちが
事実を捻じ曲げた「偏向報道」であり「創作」にすぎな
いと指摘するのだがまったく聞く耳をもたない。
彼女がいうには兵庫県知事問題は一地方知事の問題では
なくSNSがデマ、フェイクにまみれて報道の世界を脅か
している。その現状を正すためには兵庫知事問題の徹底
的な批判が必要であるという。
つまり彼女の最終目的はSNSの厳重厳格な規制である。
かつて「愛知トリエンナーレ」展で芸術監督として総合
プロデュースを担当した津田大介は表現の自由を守る立
場をあれほど力説したにもかかわらず、今やSNSの言動
を忌み嫌い、ナチスに喩えて「SNSにはドイツのネット
執行法のような徹底的な弾圧が必要である」と語る。
これは見事に政府自公政権の代弁発言になっており、今
やリベラルがいっせいに自公政権と手をとりあって大衆
庶民の自由な言論に牙を剥く事態になっている。
いまの自公政権とリベラルが一本の木の枝と根っこのよ
うにしっかり連携しあって大衆庶民の言論を弾圧する背
景には、やはりフーコが指摘したような特権的な知によ
る権力の構造があるのではないだろうか。
三十年以前の右と左がうわべの言説はそのままに反権力
的性質が180度裏返っているのだ。
そこには思想ではなくやはり資本関係が介在しているの
だとしても(NPOといいう莫大な公金チューチューシス
テムが政治家、官僚、リベラル勢力のタッグによって成
り立っている)SNSの「小さな政府」批判、NPOの公金チ
ューチューシステム批判は津田大介のような連中にとっ
て由々しき事態なのだ。
このようなときにフーコの洞察が存在していることは、
かれらを批判する武器としての意味は大きい。
あの日、日活ポルノ映画館の長椅子に寝そべって天井を
見上げていたとき高窓から差す陽の光が数条、棺桶の底
を照らすように真っ直ぐに降りてきてリノリウムの廊下
の床に日だまりをつくっていたことを思い出す。
思想とはそのようなものであってほしい。
まるで天使の梯子のようにまぶしいほどまっすぐに暗が
りを照らしてほしいものだ。